LawDesiGn

There is nothing to writing. All you do is to sit down at typewriter, and bleed. - Ernest Hemingway

仮説形成とは、仮説から証拠を導出する演繹である

5/14のエントリで書いた疑問について、「論理トレーニング101題」に、より詳しい説明がのっていました。

5/14の疑問というのは、「証拠から仮説を導く過程を三段論法の形式で書くとどうなるか」というもの。

これについて、117頁に次のように説明されていました。

仮説は証拠となることがらを説明する。…ここでは、「説明」とは、仮説に適切な前提を補うことによって証拠となることがらを演繹することにほかならない。それゆえ、おおざっぱに言えば、推測と演繹は互いに逆方向の導出となる。

「仮説形成とは、証拠という結論と大前提から、小前提である仮説となる事柄を推測すること」であるから、これを三段論法の形式にのせると、①結論部分に証拠を、②小前提部分に仮説を、③大前提部分に隠れた前提を書くことになる。 なので、

③前提:
②仮説:私は、虫垂炎かもしれない
①証拠:私は、下腹が痛い

となり、③に入る隠れた前提は「虫垂炎十分条件)→下腹が痛い(必要条件)」となる、①が答えとなる。

これは「下腹が痛くない→虫垂炎ではない」ことであり、下腹が痛い原因は虫垂炎以外にも、ある程度の確率で考えられるので、この点が反論のポイントとなる、ということかな。

5/14のエントリの解答は、 仮説形成の大前提を明らかにする作業と、その大前提に対する反論を取り違えたことが、間違いの原因ということでした。

こうやって、推測や推論を三段論法の形式に書きかえることは、判例の構造を読みとる練習になります。 伊藤滋夫著「民事法学入門」には「判例を読むとは、判例を三段論法に書きかえること」という趣旨の記載があり、非常に参考になりました。

推測を三段論法の形式で書き換える点については、とりあえずの回答を出すことができたようだ。 あとは、必要条件・十分条件と原因・結果の関係がどうなっているか、だなー。

参考リンク

「原因→結果」の因果関係を必要条件と十分条件で表せるか? - LawDesiGn

仮説形成と隠れた前提ー論理トレーニング76頁を考える

1. この問題が解けますか?

次の論証が仮説形成であるとして、その暗黙の前提を下の①、②から選べ。
「下腹の右側が痛い。だから、虫垂炎かもしれない。」

虫垂炎になるとたいてい下腹の右側が痛くなる。
②下腹の右側が痛くなるのはたいてい虫垂炎である。

新版論理トレーニング76頁に掲載されてる問題。

これ、普通に会話してて 「下腹の右側が痛いんだよー。きっと虫垂炎だよ。早く病院連れてってー」って泣きつかれたら 「おおげさだなー。ただのストレスじゃないん。太田胃散飲め!」 ( ‘д‘⊂彡☆))Д´) パーン とか、やっちゃいそうなシチュエーション(笑)。
っていう冗談はさておき、

なんで( ‘д‘⊂彡☆))Д´) パーンってやりたくなるかって、

・下腹の右側が痛いことが、虫垂炎と結びつく確率が低い。
・下腹の右側の痛みに結びつく確率の高い原因が、虫垂炎以外にあるだろう。

って考えてるからだよね。

下腹の右側が痛くなるからといって、かなりの確率で虫垂炎ってへん。 なぜなら、下腹の右側なんて結構しょっちゅう痛くなるんだし、いろんな原因が考えられる。 なんで、そこであえて虫垂炎?ってつっこみを入れたくなるから(いや、もちろん状況によるけど)。

ふーむ。この感覚に至るまでをきちんと言葉にするとどうなるだろう。

2. 回答までのプロセス

まず、「太田胃散飲め」のくだりを必要条件と十分条件の関係を借用して書き換えると、

  • 下腹右の痛みが虫垂炎十分条件と考えている(下腹右の痛み→虫垂炎)ことに対して、
  • いやいや、虫垂炎じゃないからといって下腹右の痛みがないとはいえないでしょ(対偶)、
  • 虫垂炎以外の他の原因で下腹右が痛いこともあるでしょ、

と反論しているということだよね。


とすると、冒頭の問いは「下腹右の痛みを虫垂炎十分条件と考えているのは、①と②のどちらか」に書き換えられる。

ここで、確率の問題を除外して考えてみると、
虫垂炎になるとたいてい下腹の右側が痛くなる、というのは、
虫垂炎以外の理由による下腹の痛みを除外できていない点で、 下腹の痛みが虫垂炎を包含している関係になる。 つまり、下腹の痛みが虫垂炎であるための必要最低限の外枠を画しているということ。 よって 「虫垂炎になる→下腹の右側が痛くなる」と書き換えられる。 つまり、構造としては、下腹の右側が痛くなることが虫垂炎の必要条件であることになる。

これに対して、
②下腹の右側が痛くなるのはたいてい虫垂炎、というのは、
下腹の痛みの原因となりうるものの外枠が、虫垂炎で画されている。 よって「下腹の右側が痛くなる→虫垂炎になる」と書き換えられる。 つまり、構造としては、下腹の右側が痛くなることが、虫垂炎であることの十分条件となる。

ふむ。
なので、仮説の根拠たりうる暗黙の前提は、十分条件である②となる。

ただし、この暗黙の前提が全然説得力がないのは最初に書いたとおり。 だから、この暗黙の前提に対して冒頭のような反論ができる、ということになる。

3. ところが解答は①

で、なーーーーーんで答えが①なのよ!!!! 全然わからん。

いやね、必要条件・十分条件というのは、全称文(all)である条件文の構造ですから、確率を含む仮説形成のような推論に対しては、本来は使えないのだろうとは思う。

しかしですね、3つの推論形式、つまり演繹、帰納アブダクションは、いずれも三段論法を前提にしている。 つまり、

①大前提 フランス人はワインが好きだ。
②小前提 ミシェルはフランス人だ。
③結論  ミシェルはワインが好きだ。

を例に挙げると、

①+②から、③を帰結するのが、演繹、
③+②から、①を帰結するのが、帰納
③+①から、②を帰結するのが、アブダクション

なのであるから、確率の問題があるにせよ、結局全ての推論の構造(論理の構造)は三段論法に置き換えられるはずだと思う。 そして、三段論法に引き直せるということは、①②③のいずれも形式的には全称命題になる。だから、①②③の各命題は、必要条件・十分条件で分析できるはずだよ?

本問の問いは、


②私は、下腹の右側が痛い。
③私は、虫垂炎かもしれない。

の三段論法の①に入る隠れた前提を選べ、という問題に書き換えられるのだから、 ①に入るのは「下腹の右側が痛い→(たいてい)虫垂炎」となるのではないの? だからやっぱり②が答えになるんだけど?

どこが違うんだ?

4. 本書76-77頁の解説を引用してみると

いま、「下腹の右側が痛い」ということが証拠として示され、それに対して「虫垂炎だ」という仮説が立てられている。
ここで暗黙の前提として取り出すべきは、「虫垂炎だ」ということとあわさって「下腹の右側が痛い」ということを説明してくれるような主張である。
つまり、虫垂炎だ+暗黙の前提x→下腹の右側が痛い」となるような「x」を求めねばならない。
仮説形成における前提の役割は、仮説とあわさって証拠となることがらを説明する論証をつくることにある。

「下腹の右側が痛い」という証拠に基づいて導き出した「虫垂炎である」という仮説が説得力を持つためには、下腹の右側が痛いことを表す円が、虫垂炎であることを表す円にすっぽり包含できればいいんだよねー…。
とすると、やっぱり「下腹の右側が痛い」という証拠が「虫垂炎」を導く十分条件であることを根拠づけるものを前提にすべきではないんだろうか。

( ・᷄ὢ・᷅ )

消極要件とする意味ー「否定」の範囲

昨日のエントリに引き続き、「要件事実・事実認定入門」を読んでいる。
185頁の以下の記載を読んで、改めて積極要件・消極要件の違いを考えてみた。

他人物売買における担保責任は、取引の安全のために売主に無過失責任という重い責任を負わせているのですから、売主が売った権利を買主に移転できなかった以上は、原則として売主に損害賠償責任があるが、買主が他人物であることを知っていた、すなわち悪意の場合は、例外として損害賠償責任を負わないというように考えると、民法561条のように、悪意を消極要件の形で考えることになり、この場合は悪意が立証されない限り、すなわち善意か悪意か分からない場合は、売主は、損害賠償責任を負うことになります。

逆に、民法563条3項のように、買主の善意を積極要件の形で定めれば、善意が立証されない限り、すなわち善意か悪意か分からないときには、売主は損害賠償責任を負わないことになります。

ていうか、こうやって引用してみると一文が長いね。上の段落全部一文だよ?
みんな、こんなんアウトライナーに入れずにどうやって読んでるんだ(汗)。
こんがらがるよー。とにかく「分からないことを少しでも分かるために文章化する。」なので、復習のために、考えた結果をまとめておくことにする。

「買主が悪意の場合は、例外として損害賠償責任を負わない」
それはつまり「買主悪意を消極要件の形で考えること」である*1

これを条件文で表すと「損害賠償責任が発生しない→買主悪意」となる。
その対偶は「買主悪意でない→損害賠償責任が発生する」となる。
これは「買主が善意又は善意か悪意か不明→損害賠償責任が発生する」となる。
ということは、売主の損害賠償責任が発生する範囲を広げて買主保護を図りたかったら、その損害賠償責任発生の要件を「〜でない場合」と否定の形で定めればいいってことだね。

こうやって考えてみると、ある要件を消極要件と捉えることの実質的な意味は、 ①積極的にその要件が存在する場合に加えて、 ②その要件が存在するかしないか不明の場合をも含むことにある。

法律効果が発生しない場合の要件、という消極要件の形で定めれば、 対偶をとった場合「要件の否定→法律効果が発生する」ということになる。

これは、その要件を積極要件と定めた場合よりも、法律効果発生の範囲が広がることを意味する。 なぜなら、あるものの存在の否定とは、①あるものが存在しない場合だけでなく、②あるものが存在するかしないか不明の場合を含むから。
例えば、「花子さんは太郎くんが好きだ」の否定は、①「花子さんは太郎くんが嫌い」だけでなく、②「花子さんは太郎君が好きでも嫌いでもない」を含むのと同じ。
つまり、積極要件ではなく消極要件として定めると、存否不明を含む分だけその要件が包含する範囲が広がるということであり、それを要件とする法律効果発生の範囲が、積極要件として定める場合よりも広がるということである。

とすると、ある要件を消極要件とするか積極要件とするかは、利益衡量により決まるということ。
例えば、即時取得にいう「善意」について。
通常、「善意」とはある事実の存在を知らないことを意味する。
しかし、原権利者の帰責性が大きくない場合は、その保護を図るために、即時取得の成立要件である「善意」の範囲をより狭めて考える必要がある。
つまり、通常の意味での「知らない」のままだと、①ある事実の存在を100%疑う余地もなく知らない人(=事実の存在を信じていた人)に加えて、②ある事実が存在するかしないか分からない人も含んでしまう。
これでは、即時取得の成立範囲が広がってしまい、その分だけ原権利者が保護される範囲が狭くなる。
そのため、「善意」を①に限る、つまり「積極善意」のみに限定して解釈する。
すなわち、これは②を「悪意」に含めるという意味で「悪意」を拡大して解釈することでもある。

と考えてみると、「問題研究 要件事実ー言い分方式による説例15題」第14問の即時取得のとこにある図は、分かりづらいよね(新しい版は変わってるのかもしれないけど)。

ここには、「一般の善意」=「無権利者であることを知らなかった」、「一般の悪意」=「無権利者であることを知っていた」とあって、善意の否定は悪意、悪意の否定は善意のように書いてある。
でも、善意の否定は、悪意じゃなくて「善意でないこと」だし、悪意の否定は、善意じゃなくて「悪意でないこと」だから、この書き方は、どちらでもない場合を含めず二者択一的に書いてある点で実体法の世界の図だよね。
要件事実の解説本なんだから、実体法との違いを明確に書いてくれたら、もっと分かりやすいのになー、と思った次第。

ここらへんは、「論理トレーニング」の否定の解説のとこが分かりやすい。

新版 論理トレーニング (哲学教科書シリーズ)

新版 論理トレーニング (哲学教科書シリーズ)

はー、それにしてもこれをうまく図にしたいんだけどなー。
慣れれば、直感的に分かるようになるのかなー。
むー。

*1:wikiによれば、消極要件とは法律効果の発生を障害する要件のこと。はじめ「消極要件」の言葉を見て、要件を「〜でない場合」と否定の形で定めたものをいうのかと思ったけど違ってた。でも、これを対偶に置き換えると、消極要件は、その要件の存在を否定すると当該法律効果の発生要件となるともいえるよね。とすると、法律効果発生の観点からすれば、要件を「〜でない場合」と否定の形で定めているのが消極要件、といえないことはないのかもしれない。

アウトライナーによる読書の効能—アナーキズムのススメ

「要件事実・事実認定入門ー裁判官の判断の仕方を考える」(伊藤滋夫著)を読んでいる。

要件事実・事実認定入門―裁判官の判断の仕方を考える

要件事実・事実認定入門―裁判官の判断の仕方を考える

これをアウトライナーに打ち込みながら、思ったことをつらつら。

要件事実というのは、裁判において必要な事実が立証できず、その事実があるかないか分からないときを考慮に入れた民法の解釈論のこと。

民事裁判とは、①「私的紛争を対象とする」②「公権的な」③「強制的・終局的争訟処理手続」である。 民訴の条文や制度は、どれもこれも結局はこの3つのどれかに還元できる。 でも、この3つって対等な並列関係じゃないかもね。

つまり、裁判を行う裁判官が公務員なのだから、一番大事なのは②の「公権的」の部分じゃないん。要は、税金使って私人の紛争を解決するんだから、なるべくなるべくお金かけないように手間ひまかけないように。それが、訴訟経済であり、公権的であることの意味。

訴訟の進行を大きく分けると、①争点整理段階と②立証段階に分けられる。争点整理の役割は、主張立証責任対象事実を絞り込むこと。とにかく、省ける労力は省きたいからね。当事者がいいっていってんなら立証なんかしないでいいんだよ、というコンセプト。自白も権利自白もそういうこと。かといって、これを正面から肯定するのもなんだかな、というわけで、当事者意思を尊重するという建前をつくっている。それが弁論主義。裁判における当事者意思の反映なんてそんなもんでしょ。

って考えると、またちょっと面白い。
要件事実論が持つ立証の公平を図るという機能、それは民法が担う部分を反映させたにすぎない。民法と民訴を要件事実の観点から見ると、民法が当事者の公平を考えるよいこちゃんで、民訴がドライな金勘定、みたいなイメージ。でも、この二つも対等じゃないよねー。金なきゃ民法で定めた権利も絵に書いた餅なんだよ?結局、民法は民訴という車で運んでもらうしかないんです。

アウトライナーを使った読書が面白いのは、本の構成に囚われない読み方ができるのも理由の一つだろうな。活字の力って結構恐ろしくて、活字となってばーんって目の前にあると、恐れ多くてそのまま理解しなきゃって思うのよ。理解できないのは、自分の理解力のなさだって、ひたすらそう思っちゃう。専門書になればなるほどその傾向は強いんじゃないかな。

でもさ、そんなことないよね。 本って別にエラくもなんともない。自分のために自分が好きなように料理すればいいのさー。

って、なんか荒れてるな、今日は。今日は?

( ‘д‘⊂彡☆))Д´) パーン

「原因→結果」の因果関係を必要条件と十分条件で表せるか?

以前のエントリで、「原因と結果の事実的な結びつきを判断する条件関係『あれなくば、これなし』が、どこから来た公式だろう」という疑問を書いた。

その後、この条件関係と必要条件・十分条件との関係を考察したブログ記事を見つけた。

① 法学者と文学徒との対話 - 横井克俊のブログ
② 「ならば」と因果関係の関係・再考 - 横井克俊のブログ


①にある次の記載↓

文学徒:ちょっと待ってください。先生の採用される条件公式は、「実行行為Aがなければ結果Bはないといえる。よって、AならばBである。」という推論ですよね? これは論理的におかしいですよ。「notA⇒notB」から、その対偶である「B⇒A」を導くことは正しいですが、先生は、逆である「A⇒B」を導いてしまっています。「逆は必ずしも真ならず」ですよ。

この文学徒と同じ誤解を、私もずっとしていたことが判明。
通常、原因と結果の関係は「原因→結果」として→で結んでしまうため、「原因ならば結果」という条件文に置き換えていた。そのために、原因・結果の関係と必要条件・十分条件との関係を混乱していたのだった。

厳密にいうと、形式論理の世界には「時間」の観念がないため、因果関係という時間の流れを形式論理で表現するは不可能であるらしい。 しかし、それを踏まえた上で、自然言語の世界にあわせた形で形式論理を借用すると、原因と結果の関係は、結果が原因の十分条件、原因が結果の必要条件となる。つまり、必要条件・十分条件との関係でいえば、「原因→結果」ではなく、「結果→原因」と表すべきなのだった。

とはいえ、この手のミスはありがちなようで、米国ロースクール入学の際に必要なLSATの試験でも、似たような問題があるようだ。
例えば、こちらのサイトにのっている

「Strong DNA evidence was all the jury needed to convict Mr. Harris of murder. 」から正しく推論される文は何か

という問題。
対偶をとるために、まずこの文を必要条件と十分条件に分けなければならない。

needにつられてDNAが殺人罪成立に必要だ、と考え「殺人罪成立→DNA証拠がある」としがちだが、これは間違い。これだとDNAがなければ殺人罪は成立しないことになり、DNA以外による殺人の立証を認めないことになる。 正しくは、「DNA証拠があるならば→殺人罪成立」であり、DNAが殺人罪成立の十分条件となる。

あえて、ある文の必要条件・十分条件を考えようとするのは、その文の対偶を考える上で必要なものだから。そして、対偶を考えることがその文に対する反論を組み立てる第一歩。 たぶんこの手の思考は、反論を考える際に無意識にやっているのだろうけれど、言語化してみることでトレーニングしやすくなるのは確か。

RT @uwaaaa: 「間接事実として使えるかどうかは対偶を取れば分かりやすい」と教わりましたね。「痴漢ビデオをたくさん持っていれば痴漢をした犯人である」の対偶を取ると「痴漢をした犯人でなければ痴漢ビデオをたくさん持っていない」になって,必ずしもそうは言えないだろうという構造が分かりやすくなる。
posted at 17:48:07

これは、以前お気に入りに追加したツイートだけれど、やはり形式論理と法的推論というのは、法律家の間でも無意識の領域になっていることが分かる。

法と人工知能の分野がもっと進展したら面白いだろうなぁ☺

文章教室第8回「まずはどんどん書きましょう」#2

結城浩先生の文章教室第8回に取り組んでいる。 文章の推敲過程を見るのがとても面白かったので、私も昨日のエントリの生育状況を書いておこうと思う。

推敲過程#1 20140508 9:31

ツイートを一文ごとにアウトライナーに落として、展開させている段階。 10分単位でこれをやっていって、文章の変化を時系列で一覧できたら面白いかもしれない。

このアイデアは、「読むことは書くこと」というドミニク・チェンさんのコラム第14回から得たもの。詳細はこちらのページをどうぞ。

ドミニク・チェン 「読むことは書くこと Reading is Writing」 第14回「『熱量』と『学習』①」 - DOTPLACE

ここで紹介されているtype traceを使った動画がとても面白い。

動画を見ていると、目の前でリアルタイムに書かれる本を読んでいる感覚を味わえる。同時に、読むことと書くことの間にあるものを考える。

読み手として他人を前提にするなら、読み手のフィードバックを受けて書き手の創造が促されることは、他人の脳によって自己の脳を補完していることを意味する。

では、読み手として自分自身を前提とする場合はどうだろう。 自分の書いたものを自分が読んで新たな創造が促されることとは、自己の脳は自分自身を補完することを意味するんだろうか。

文章を書くことが、自己修復になること。その意味をもう少し考えたい。

文章教室第8回「まずはどんどん書きましょう」#1

文章教室第8回は、こちら。 http://www.hyuki.com/wl/08q.html

フリーライティングから文章が出来上がっていくまでの過程を見ることができます。 これが一番面白い。特に、副詞の位置については、私自身いつも修正する点なのでとても興味深い。 いろんな人の文章の推敲過程を集めて本にしたら、絶対売れそうな感じがする☺ 形式論理とか認知心理学とか、そういう分野にも役立ちそうな試みのように思います。

自分が文章を書いてみて、一番スムーズに書けるなーと思うのがtweetをつなげていくこと。なので、これをAの段階としてコピペしておくことにします(文章教室の練習課題の問いとは少し離れてしまいますが)。頭の中で何を考えているかもアウトプットしないと目に見えないし。「まずは、どんどん書く」が大事。

法的思考のフレームワークに関する、ロースクールポラリスの解答tweetから思いついた一連のつぶやきです。


規範レベルで人と人。具体化レベルでXとY。

背後の価値判断を2つのレベルで2回繰り返す。

QT「一番の問題は適切な類似点を見つけ出すことである。つまり「ある法律の要件が本来着目している性質は何か」という点が法律論にとって は重要であり、類推そのものは機械的なものである。」

ある法律要件が本来着目している性質は、全部人の利益に還元できる?

帰納法でルール導き出す過程と、演繹法であてはめる過程って同じことをするんだよね。

図にできる答案。

本番では時間ないから。徹底的にマニュアル化できるところはマニュアル化する。一行の文字数、一文の要素、一段落に含む文の数、接続詞、段落の数、段落と段落の量のバランス。あとは時間。

それが一番気持ちを安定させてくれる。

三段論法の入れ子構造。一つの三段論法で説明不足なら、大前提か小前提かを展開して、更に三段論法を組む。そうすると、一つの段落は3つの文から成る。どの段落も量と構造は変わらない。接続詞も同じ。

一つの段落を書く時間は同じ。一文を書く時間は同じ。形式にかかる時間は同じ。後は、事案の特殊性の検討。

書くことは読むこと。

読むこととは、三段論法に書き換えること。

答案は美しいアウトライン。

「優れた文章のアウトラインは美しい」http://t.co/R3fbjfmIW6

建築の設計図のイメージ。http://t.co/FcJnJLNO2G

QT「だから、与えられた機能目標を実現するという条件のもとで最大限に見た目が美しいコードを書く努力をしてほしい。それが、優れたプロクラムを作る近道だ。美しいというのはそれほど重要なことだ。」

美しいというのは、無駄がないこと。

「その一文は必要なのか」

法律的文書なら、その見た目がコードと似てないわけない。

一語でも多ければ、プログラムは機能しない。

これが要件事実論でしょ?

必要条件と必要十分条件と。

普段の生活の中で、必要条件とか十分条件とかいうのは、どの程度まで実用的に使えるものなのか。 と、択一六法を見つつ、正当防衛のあてはめを考えながらぽんやり思う。

正当防衛の成立要件の一つとして、「防衛行為が、急迫不正の侵害を排除するために必要な行為であること」というのがある。 これは「当該防衛行為が、急迫不正の侵害を排除するための必要条件である」ということ。 なので、この文は、

「急迫不正の侵害が排除される」ならば「当該防衛行為が存在する」(当該行為が防衛行為として存在する)

という命題文に書き換えられる。

具体的事案を上記命題文にあてはめる場合、

「Xの暴行は、その行為が存在しなければ、Yからの急迫不正の侵害は排除されないと言える。だから、Xの暴行は、Yによる急迫不正の侵害を排除するために必要な行為である。よって、防衛行為の必要性を満たす。」

と書くことになる。

今まで無意識にやっていたけど、ちゃんとステップ踏んで考えると、あてはめるときって上記命題文を対偶に置き換えて考えていることになるのねー。

問題は、Xの暴行が存在しなければ、Yからの急迫不正の侵害は排除されない、と結論づけるための評価。 重要なのはここではあるのだけど、評価という肉付けをするための骨組み部分を形式論理できちきち書けるようになったら、それは素晴らしいなーと思う。

実は、原因と結果の事実的な結びつきを判断する条件関係についても「あれなくば、これなし」ってどっから来た公式だろうと不思議に思ってたのだけど。

google先生によれば、 これは、「Pであるときだけ、Qである」という必要十分条件ということらしい。必要十分条件ということは、この文は「P=Q」ということなので、「Pでない ならば Qでない」と等価か…。

そして、形式論理では、因果関係を表現することはできない…とのご指摘。

むー。

(記憶+想起→表現):ダイアグラム→アウトライナー→ドキュメント

1:1の個別指導塾でバイトしてた大学1年の頃。
担当した子の一人から「覚えるってどうやったらいいの?」と聞かれたことがある。

正直考えたことがなかったので、どう答えていいかとまどった。
「覚えるってただ覚えるって言う以上になんて言えばいいんだ。」と思いながら、「私の場合は、ひたすら手で書くよ。」って答えた*1

今振り返ると、それが「無意識にしているもの」を意識した最初のように思う。
「いい選手はいい監督にはなれない。」とはよく言うけど、物事を始めるのに最初から上手く出来ている人に聞いても参考にならないことが多い。手順を言葉にする、というのはその手順自体を意識に昇らせて表現する必要があるわけで、そもそも無意識下で出来ている人はそれを意識に昇らせる必要がないからだ。

こんな昔の記憶を思い出しながら、じゃぁ「覚えたものを表現する」のはどうしたらいいんだろうと考えている。「覚える方法」を意識したことはないけど、「表現する方法」にはいつも悩まされている。表現の前提には、記憶の想起というステップがあるから、要はインプット→インプットの想起→アウトプットのうち、想起とアウトプットのどちらかあるいは両方が、うまく機能してないんだろな。

インプットしたものを、その想起を経てアウトプットする、とはどういうことなんだろう。

「インプットしたものを、その想起を経てアウトプットするとはどういうことか。」
私に背後霊のように常につきまとうこの疑問を解決すべく、最近図書館に行くようにしてみている。

その当面の目的は、あえて借りないでその場で読み切ること。
家に持って帰っちゃうと積ん読状態で返却期限を迎えてしまうこともしばしばなので、なるべくその場で読み通してメモするようにしてみている。

まず、本の流れをつかむ。
書きながらキーワードを抜き書きしてその関係を矢印で結んでいく。途中で新たなテーマが出てきて本全体を貫くキーワードとの関係が見えなくなったら、もう一度今の話題と元のキーワードを矢印でつなげられるように流れを確認する。それは本一冊全体を通してでもいいし、本のある部分だけでもいい。自分に必要なところを必要なだけノートに書いていく。これをコンピュータを使ってやるなら、ダイアグラムアプリで言葉をつなげていく感じ。

こんな感じで全頁をめくり終える。
よっし、読んだ!楽しかった!さー、家帰ってブログに書いてみようー、と思いながら、ほくほくして家に向かう。 だけど、いざ家に帰ってノート見返しても文章になってくれないんだよね…。 これが「文章にする」ではなくて「口で説明する」ときは大丈夫なんだろうな*2。覚えてる図を紙に書いてペンで言葉のつながりを書きながら話す。相手に伝わらないところは質問してもらえるから、その場で補充もできる。まさに会話のメリットはそこにあるよね。書き言葉と話し言葉の違い、口述筆記の違いを改めて考えたくなる。

それはさておき、

図として記憶しているものを文章にするのがとても負担。

それが今の課題。

さて、課題解決の王道は、まずそのプロセスをつぶさに観察して細切れにすること。

「図→文章」へ一気に変換するのがつらいんだろうかなー。
そう思うとやはり登場するのが、じゃーん、アウトライナー!というわけで、手書きのフリーライティングから愛するアウトライナーに戻ってきた。

「図→いきなり文章をつくる」じゃなくて、
「図→一文ずつアウトライナーにのせる→結果として文章になる

こんな軽い気持ちでやってみよう。
はー、正直一文ずつだって気が重いんだよね…。キーワードならそのつながり方を考えるのがとても楽しいのに、一文の形にした途端、そのつながり方を考えるのがだるすぎるっていうのは何だ…。昔年の謎。

文章の書き方的なブログやアウトライナーの記事は大好きでよく見ているんだけど、一文と一文のつなげていき方、という点にフォーカスしたエントリをあまり目にしたことがない。ちなみに、こういう作業と並行して法律翻訳を学びたいと思うのは「単語のつながりと並べ方」については、英語の方がより厳密に要求されるから。英語でこれを訓練することは、日本語の文章作成能力の向上にも相乗効果をもたらしてくれるはず。いや、でもこれって「論理」の話なんだろうけどね。

個人的には論理なんて3つしかないと思っていて、どんな文章だって、イコール(=)か反対(⇆)か因果関係(→)か、それに集約されるだろうと思ってるのだけど、これがキーワードじゃなくて一文の形で目にした途端、どうも何かのシャッターが私の中で降りてしまうらしい。

こんな経緯で、やはり私はアウトライナーに戻ってくるわけで、アウトライナーに戻ってきたからには、Tak.さんのエントリに還ってくるのが私の論理(笑)。

本日の未整理な考え:Word Piece >>by Tak.:So-netブログ

文章のリズムを感じられる短文の箇条書き。
箇条書き好きなんだからあとちょっとよね。箇条書きつなげりゃーいーのよ(やけくそ)もー。
箇条書きつなげれば論理的な文章をつくりやすいっていうのもよく分かっている。にも関わらず、できないというのは、たぶん出来上がった文章の「絵的な意味での見た目のカタチ」が、自分の中でかなり重要な位置を占めているからなんだと思われる。

この感覚はロランバルトにつながる気がするのよね。「表徴の帝国」に載ってた、たぶん屏風と思われるものに筆で書かれた日本の仮名文字の写真。これは果たして文字なのか絵画なのか。私の言葉に対する感覚は「文字か絵画か」というよりも「文章かデザインか」という方が近いのだけど、似たアイデアを背後に感じる。

この「表徴の帝国」に掲載されている写真と似たような筆文字の写真が落ちてないかなーと思ってぐぐってたら、こんなのでてきた!


日本の伝統書道と欧米の現代芸術の比較 http://www.transcri.be/text/Japanesethesisfinal.pdf

漢字を理解する難しさのほどは、現代美術を理解するのと似ている: "組織的秩序の破壊、 革新を通し確立された考えの破壊、"標準" の違反、既存概念の再定義、 等... 漢字を知る者と全く関心のない者の間に起きる隔たりは、 現代美術の専門家と一般のアマチュアとの関係と比較できるのではないだろうか。

「漢字」が文字であると同時に絵画である、というのは確かによく言われることでおもしろいよねー。
デザインとしての日本語と英語。タイプフェイスの種類が一般的に欧文字の方が多いのは、漢字を持たない欧米人等が文章にデザインを求める感覚、と言えるものなのか。それとも単なる技術やコスト的な問題にすぎないのか。

で、最後にアウトライナーによるブログ書きの話に戻ると、

アウトライナーによるブログ作成といえばFargo。
Fargoのコンセプトは大好きで、私も何度もFargoでのブログ書きを試してみたけれど、あのFargoの「画面の固さ」に、どうにも背中がむずかゆくなるような感覚があって使えなかった。 Fargo見てると、MS-DOSの画面を思い出すのは私だけなのかな。固い固い、柔軟性の欠片も感じないようなあの黒いカーソル見てると、アウトライン自体を入れ替えるにもカッシャンカッシャンって機械音が聞こえてくる気がする。

改めて思うのは、私の頭ってほんとめんどくさいってことだ(笑)。
この柔軟性のなさ、私の頭は何の檻に入っちゃってるんだろうね。





*1:以前に書いた写真のような記憶の仕方はこの当時では既にできなくなっている。でも、そういう覚え方ができなくなった(あるいは、しなくなった)時点を記憶していない。また、写真のシャッターを押すような記憶の仕方から手で書く記憶の仕方に移行した、その過程もどうしてそうなったか意識できてない。

*2:心理的な負担については、いつものことながら脇に置いておく。

「公益」−個人の集約?

行政法百選の原告適格らへんを読みながら、行政法ってなんだろうなー、なんてことをぽんやり考える。

行訴法関連の判例を読んでいると行政府が縄張り確保に一生懸命になっている様子が伝わってくる。我々は国民が決めたルールに則って粛々とこれを執行する、その過程や内部に裁判所には立ち入らせまいとする感じ。でも、この感じが最高裁の判決文から漂ってくる、というのは何でしょう。権力分立の真の姿?

裁判で糾弾すべき行政の行為が「処分性」の要件を満たすかどうか不明の場合、抗告訴訟民事訴訟(又は実質的当事者訴訟)を併合提起するというのが実務のようだけれど、抗告訴訟民事訴訟の境が曖昧にされたまま、なかなか議論が進んでないように見えるのはなぜなんだろうな。 処分性の有無が微妙な場合に、行政訴訟民事訴訟も、って安易にいけるとすると、取消訴訟が出訴期間や出訴方法を限定した趣旨を没却するのは確かねー。でも、実際被害受けてるその人の救済やら裁判を受ける権利やら、そういうものは置いてけぼり感満載。

この置いてけぼり感を一番感じるのが、第三者の原告適格のとこ。
処分相手以外の第三者に原告適格を認める規範、「処分の根拠法規が、不特定多数の具体的利益を一般公益の中に吸収解消させるにとどめず、それが帰属する個々人の具体的な利益としてもこれを保護する趣旨と解される場合」。

これが認められる場合って、一般公益を超えるほどの個人の利益を個別の行政法が保護していると解釈することだけど、「一般公益を超える個人の利益」を保護するというのは、憲法の仕事とかぶってくるんじゃないのかなー。ここらへんのあてはめは憲法の解釈とどう違うんだろう。

第三者の原告適格を判断する上で被侵害利益の重要性が重要な考慮要素となるって、もんじゅ判決で言われているけど、特急料金の値上げに対する認可処分の取消訴訟原告適格については、どうも百選に掲載されている判旨だけではこれを否定する理屈がよく分からない。感覚的に特急料金の値上げ額自体たいしたことないんだろうと思う。それに、行政府としてはいちいち訴訟対応させられるのもいい加減にして!って感じなんだろう。でも、これが「経済的利益が生命身体の安全よりも被侵害利益として重要でない」と考えられてる結果なんだとしたら、結局行政法においても憲法の二重の基準が妥当してるって考えていいんだろうか。まー、でも行政訴訟法が行政と司法の対立局面、もとい役割分担だとするなら、むしろ憲法と同じ基準で判断されないとおかしいってことになるのかも。

いずれにせよ、原告適格を認められなかった方々が、裁判所で救済されないから政治過程で行政を是正しましょう、デモだ、選挙だ、なんてたぶん難しいわけで、被害を受けた人はちょっと運が悪かったね、甘受するしかないね、大多数の人には無関係だもの、ということになってしまうのだな。マイノリティを守る憲法大事ね。

そういや、憲法復習しながら、投票価値の平等のとこ読んでて「一人一票運動」っていうのは何なんだろうな、と思った。
投票価値の平等の実現って、あれこそ大都市の横暴以外の何者でもないように見える。人口比例っていう形式的平等を貫くことで実現される「人格権」って何でしょうか。

先日、「一人一票訴訟の裁判で裁判官がろくに弁論を聞かず眠たそうにしてた」っていうつぶやきを見たけれど、その裁判官は意図せずして、少数者の権利保護の最後の砦という裁判所のあるべき姿を示したのかもしれないな、とか思いました。

んで、第三者の原告適格のとこが分からん、そもそも「公益」って何だろうかと、もんもんとしていたとこに、ナイスなタイミングで目に飛び込んできました。この本@図書館↓。

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル

本の内容を一言で要約すると、これからの選挙は「無関心層」が鍵を握っている、ということ。社会のポストモダン化により価値観が多様化しちゃって政治が無力化している現代において、これからの民主主義はどうあるべきか、国民の意思をどう国家政策に反映していけばいいのか、その鍵はインターネットを初めとする情報技術が握っている。間接民主主義の否定?直接民主主義の肯定?いやいや、そもそもそういうこと自体が意識化されていない政治に無関心な層の「無意識」を情報技術を使って国政の場に反映させることができれば、より理想に近い間接民主主義制度になるのでは?という主張(政治に無関心な層…、はい、私のことです…)。

無意識」を一つのキーワードに、ルソー、ヘーゲルフロイトノージックまでを著者なりの面白い解釈で説明してあって楽しく読めました。

ルソーの一般意志について、本書ではこれを「個々人の差異の和」と定義します。
差異のある人がいればいるほど一般意志に近づく。そのため、ルソーは、個の差異の数を減らす結果になる結社の自由を否定するし、更に政治の場における個々人のコミュニケーション自体をも否定する。政治にコミュニケーションは不要である。ただ、同じでないたくさんの人が存在すればそれでいい。個々人の社会契約により共同体が生み出された後は、選挙や議会における討論を含むいかなる政治的コミュニケーションが存在しなくても自然に数学的に存在してしまう「物質」に近いもの。これがルソーのいう一般意志の正体である、と。なるほど。

「集団の多様性が高ければ高いほど、集合知の精度は上がる」

「公益」って何だろう?




「デス・ビリヤード」

「デス・ビリヤード」見ました。
このアニメは、文化庁が2010年から行っている「アニメミライ」という若手クリエイター育成プロジェクトの参加作品の一つ。 詳しくはこちらの公式サイトをどうぞ。

アニメミライ[ animemirai ]

「デス・ビリヤード」は、一人の若者とお爺さんがとあるバーに着いたところから話が始まります。二人はそこでバーテンダーにいきなりこう宣告される。

「今から命をかけてビリヤードをして頂きます。」
「そして、ゲームが終わるまでここから出ることはできません。」

訳の分からない二人は当然拒否します。でも、ゲームをしないとこうなります、と言ってバーテンダーに見せられた扉の先には天井から吊るされた大量の首つり死体が、、。結局二人は強制的に命をかけたゲームに参加させられることになります。
さて、その勝敗は?というお話。
25分程度のストーリーですが、とても楽しめました。

以下、内容に関する記載があります。

続きを読む

「世界は暗喩に満ちている」−overtones

ビューティフル・マインド [DVD]

ビューティフル・マインド [DVD]

ビューティフル・マインド - Wikipedia

見ました。
以下、内容に関する記載があります。

続きを読む

民法改正の話−個人の意思とか群集心理とか実は男女間の問題だよとか。

朝日新聞読んでたら見つけました。

「約款」に関する民法(債権法)「現代化」への改正に動き - 法と経済のジャーナル Asahi Judiciary

現在、民法の契約に関する規定について制定以来100年ぶりに改正が検討されている。 約款の定義とその拘束力を民法上明記しようというのもその一つ。

契約の拘束力の根拠は、契約内容について当事者相互が理解していることを前提に、その内容に従うことを決めた各当事者の意思にある。

でも、上記引用記事にもある通り、約款なんてハナから読めもしないような細かくて、これでもかー、みたいな大量の文字で書かれてあって、いちいち読んで内容を理解しろもへったくれもないだろう、というのが普通だよね。だいたいそんなもの読んでるヒマもないしって、でも定型の形があるんだろうから、弁護士が見れば見るべきポイントっていうのは分かるのだろうな。

で、こういう約款を使われる場面での当事者の合意なんて、あってないようなもの、という実態を法律に反映させようという試みが冒頭の約款の定義とその拘束力を明記しようという改正論議。

これって、拘束力の根拠を当事者の意思に求める契約理論を前提とした民法−商法−会社法等の私法の体系の根本の変更を迫るものだよね。 拘束力、要はルールに服従させる根拠を当事者意思以外のものに求める。
当事者意思以外って強制力だよね。 現在の法律の下では、個人の意思如何に関わらず強制力を行使できるのって政府だけだけど、約款の拘束力の議論が強制力の行使(あるいはそれに類似したもの)を民間にも認める考えなら、それはアナルコキャピタリズムを含むリバタリアニズムコミュニタリアニズムへの流れそのままなんじゃないだろうか。

それとも当事者意思と国家の強制力の間に、まだ何か別の概念を考える余地はあるんだろうか。 そういう概念を考える余地があるかはよく分からないけど、民間と政府、それしか観念できないのだとしたら、民間同士で個人の意思とは離れた強制力を働かせるルールをつくるということになる。

これを個々の案件に対する解釈としてではなく、国民全体のルールという法律として明記してしまうことの意味を考えると少し怖い。
確かに、人間も社会も少しずつ進歩している。でも進歩している人がいるなら進歩してない人だって同じようにいる。格差社会?それって何だろう。

進歩してきた人間、それを思うたびにニーチェの超人思想を思い出す。
もちろん「超人」なんて超人じゃない人がたくさんいないと成り立たないし、そもそも本当に超人である人は、自身が超人であることなんて認識してないんだけどね。 ただ、リバタリアニズムに対して、超人思想だっていう批判ってどうしてそんなに人間に対して悲観的なのかな、と思う。

リバタリアニズムを、そんなのユートピアだ、そういう批判をしているだけでは何も変わらない。人間は確実に多様化しているから。ナチズムの思想的背景として使われた過去の歴史があるにせよ、それを批判して現状に留まるだけではそれこそ過去の失敗を繰り返すだけのニヒリズムになってしまうんじゃないかな。ニーチェの「永劫回帰」。これはニヒリズムとは全く違う。

その思想の一端はスカイクロラにも表れている、と思う。
↓こちらはストーリーが5分で分かる予告編です。

The Sky Crawlers 1 Trailer raw - YouTube

「愛と生と死の物語」ね、、。ファンとしては陳腐な表現としか思えないし、絢香のこの主題歌も果たして広告としてどこまで成功してるのやら、意味不明だけど。 あー、分かりやすい表現に「治されてる」ところが違和感いっぱい。気持ちが悪い。

そういえば、前に映画館へ「イノセント・ガーデン」を見に行った時、予告で流れてたこの映画。こないだTSUTAYAいったらDVDになってたのを見つけた。

予告見てちょっと面白そうって思ったんだよね。

映画『コンプライアンス 服従の心理』日本版予告編映像 - YouTube

服従の心理、建前ホッブズと実質ヒュームを思い出す。 国家形成の過程、これって秩序形成のために「何か」に服従する、その歴史でもある。

で、服従の心理、で思い出したのがこれ。

傍観者効果 - Wikipedia

なんでだろう。自分自身の安全を守る、それに体が支配されてしまう状態、ということつながりだろうか。

英語のwikiも見てみたけど、

Murder of Kitty Genovese - Wikipedia, the free encyclopedia

こっちはもうちょっと面白い見解が書いてある。 psychological researchのとこ。

In September 2007, the American Psychologist published an examination of the factual basis of coverage of the Kitty Genovese murder in psychology textbooks. The three authors concluded that the story is more parable than fact, largely because of inaccurate newspaper coverage at the time of the incident. According to the authors, "despite this absence of evidence, the story continues to inhabit our introductory social psychology textbooks (and thus the minds of future social psychologists)." One interpretation of the parable is that the drama and ease of teaching the exaggerated story make it easier for professors to capture student attention and interest.

ちょっと誇張されすぎている、その事実を踏まえた方がいいみたいだ。
そして、

Psychologist Frances Cherry has suggested the interpretation of the murder as an issue of bystander intervention is incomplete. She has pointed to additional research such as that of Borofsky and Shotland demonstrating that people, especially at that time, were unlikely to intervene if they believed a man was attacking his wife or girlfriend. She has suggested that the issue might be better understood in terms of male/female power relations.

群集心理の問題というより、男女間のパワー関係の問題として捉えた方が適切なんじゃないって話のようだ。これはちょっと面白い。これwikiの注釈によると1997年の文献がもとになってるらしい。

でもー、これ

キティ・ジェノヴィーズ事件〜傍観者効果/『服従実験とは何だったのか スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産』トーマス・ブラス - 古本屋の覚え書き

これ読むと、

住民たちの多くは、若い女性が殺されるというような非常事態が発生していることを受け入れることさえもできなかったのである。かわりに人びとはこの出来事を、よりもっともらしく、心を悩ますことのないものであると考えようとした。たとえば、恋人同士のケンカや、酔っぱらいが騒いでいるだけであるというような解釈をしがちになるのである。

上記はこの本からの引用。2008年出版。

服従実験とは何だったのか―スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産

服従実験とは何だったのか―スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産

やっぱり、自分自身の安全を守る、そうするように意識は体を支配する、そういうことでよい気がする。心、というのはそういうもの。身の安全を守るためなら意識は何だってつくりだす。幻覚だろうが幻聴だろうが、別人格だろうが、なんだって。

wikiって芸能ニュースは光の早さで更新されるのに、こういうことって更新されないのねー。 インターネットね。

映画「イノセンス」の理論的説明を試みようとしたらば、経済に行き着いたという話

映画イノセンスの主人公、草薙素子の出生についてのおしゃべり。

映画イノセンスの予告編はこちら。

映画『イノセンス』劇場本予告 - "INNOCENCE" Theater Trailer - YouTube

「目をつむっている人に、あるのは意識だけ。」
これは哲学者でいうとバークリ(1685〜1753)の考え。

ジョージ・バークリー - Wikipedia

バークリは代表的な三人のイギリス経験論者の一人で、残りの二人はロックとヒューム。 時系列に並べると、ロック→バークリ→ヒュームの順。

経験論とは、理性よりも感覚を優位に考える見解で、それまでの大陸合理主義(デカルトパスカルスピノザライプニッツ等)、要は人間の理性を絶対的に信頼する考えに対するアンチテーゼとして出てきたもの。
初代イギリス経験論者であるロックは、人間の理性や知性を絶対視する流れに対し、人間の素朴な感覚というものも無視しちゃだめだよ、ということで、経験主義と大陸合理主義との調和を図った人でもある。理性なんて確かなものがあるかどうか、それはさておくとして、とりあえず理性も感覚も大事なんじゃない?、という二つの間をとった人です。

ちなみに、冒頭の映画イノセンスは、大陸合理主義者の祖であるデカルトが主張した心身二元論、そこから派生した「人間機械論」を一つのベースにつくられています。

で、イギリス経験論の話に戻ると、
ロックに続いて出てきた冒頭のバークリは、ロックよりももっと感覚を重視する。

「存在することは、知覚されることである。」

この言葉で有名な人。
彼は実体的な物質の存在というものを否定する。
だって、目を閉じちゃえば見えないのに、なんでそんなにも自分の目をあてにできるの?自分の目に見えさえすれば、なんでそれが形として存在してるといえるの?


「自分の目に見えさえすれば、なぜそれが存在していると言えるのか?」
これは、脳科学の見地からはよく分かる疑問だと思う。

でも、バークリは、たとえ目をつぶって何も見えない状態でもそれを認識する目に見えない自分自身の精神の存在は肯定する(この点で、次のヒュームほど徹底的に感覚のみを重視しているわけじゃない)。 そして、経験論に立ちながらも目に見えない精神・魂を認識できる理由を神の存在に求める。

って、理論的に説明されるとよく分からないけど、冒頭に引用したバークリのwikiにもある通り、

彼は聖職者であり、宗教的見地から魂の不滅と神の存在を結びつける必要があった。また、彼は物質を実体であると認めることは唯物論無神論に結びつくと考えたのである。

こういうほんとの事情が分かれば、バークリの見解は非常に理解しやすい。

で、この経験論を更に突き詰めまくり、「人間が認識できないものは全て存在しない」、そう言ったのがバークリに続くヒューム
だって目に見えないじゃん、という理由で、ヒュームは因果関係や推論といったそれまでの物理学等自然科学の発展を基礎づけてきた理論を全て否定します。

これはまた随分と極端な話だなぁと思うけれども、実はヒュームのこの徹底した経験論(懐疑論)が「人間本性論」という著作を生み、アダムスミスと並ぶ経済学の元となる思想を確立することになります。

不思議だなー、
科学の理論を全否定するおよそ知性というものからは離れたように見える発想から、経済学が生まれたのだ。 まさに人間そのままが経済であって、でもそれが今社会を動かしているシステム。人間本性論。

以前こちらにも書いた「社会契約論−ホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズ」(重田園江著)。

この本では、社会契約論の説明のために、社会契約論を否定するヒュームをとりあげます。 ヒュームは上記のような徹底した経験論をベースに、契約という概念を国家形成過程の説明として用いることを否定します。彼は経験を重視するので「社会契約なんてものを第三者と結んだ史実が過去にあるのか、ないだろう、そんなものはないんだ!」と考えるわけです。

ヒュームは「契約」の代わりに「コンヴェンション」(人間共通の利益に気づくこと)という概念で秩序形成過程を説明する。 ホッブズの社会契約論の背景にある「万人の万人のための闘争」状態では明示的な「契約」という形で相互の安全を保障する理屈が必要だった。これに対して、ヒュームのコンヴェンションの背景には、既に「相互に共通の利益を観念できるだけの平和状態」がある。この相互に共通した利益をお互いに追及する、というコンベンションの考えが後の経済学のもとになっていく。

両者の考えの違いには当時の社会情勢が反映されている。
ホッブズの生きた1588年〜1679年というのは、宗教戦争の時代。

宗教戦争 - Wikipedia

宗教改革 - Wikipedia

これに対して、ヒュームの生きた1711年〜1776年は、宗教戦争は終わり啓蒙主義が広がる時代。

18世紀 - Wikipedia

ホッブズとヒュームって人間の集団から秩序が形成される過程を正反対の方法で説明してるわけだ。
ホッブズの「リヴァイアサン」、これ私大好きなんだけど、経済がさっぱり分からないっていうその理由がようやく分かった気がする(笑)。 というわけで、これをちょっと立ち読みしてくるぞー。

高校生のための経済学入門 (ちくま新書)

高校生のための経済学入門 (ちくま新書)

人間はどこまで動物か−未熟児とストロベリーショートケイクス

「捨てられない子ども」だった。 - いつか電池がきれるまで

 ■

私はモノを捨てるのが大好きだ。

捨てていかなければ、何が捨てられないかが分からない。

どんどん捨てることで、それでも捨てられないものが分かる。

この捨てられない、わずかに手に残ってくれる本当に大切なものを大切にしたい。

私の体内リソースは小さすぎて、多くのものは抱えられない。

 ■

私は980gで生まれた超未熟児でした。

 Preterm birth - Wikipedia, the free encyclopedia

Risk factors

As the cause of labor still remains elusive, the exact cause of preterm birth is also unsolved. In fact, the cause of 50% of preterm births is never determined. Labor is a complex process involving many factors. Four different pathways have been identified that can result in preterm birth and have considerable evidence: precocious fetal endocrine activation, uterine overdistension (placental abruption), decidual bleeding, and intrauterine inflammation/infection.  Activation of one or more of these pathways may happen gradually over weeks, even months.  From a practical point a number of factors have been identified that are associated with preterm birth, however, an association does not establish causality.

未熟児の正確な原因はまだ何も明らかにされていない、ということが分かる。

生まれた時点では、死んだ方がよかったんですよ、そう看護師の方に言われたそうだけど、NICUの先生方の力の結集によって助けて頂いた。ただ、視力は諦めて下さい、そう言われたとは聞いた。

未熟児網膜症という疾病がある。

未熟児網膜症 - Wikipedia

少なくない数の未熟児がこの病気によって視力を失う。

それでも、私は視力も残った。ただただ運が良かったのだと思う。

先生方の力と運に感謝して、日々を楽しんで生きていきたい。

こないだ、平成25年9月3日付で、国立生育医療研究センターから出たプレスリリースを見つけました。重症の未熟児網膜症でも手術によって良好な視力の改善に成功した、という内容です。

http://www.ncchd.go.jp/center/information/topic/images/130903-1.pdf

未熟児網膜症は小児失明原因の第一位であり 35%を占めています。

ことに体重が極端に少ない未熟児に起こる重症型(厚生省分類Ⅱ型/国際分類 Aggressive posterior ROP)は失明の可能性が高く、きわめて難治でした。国立成育医療研究センター病院眼科・研究所細胞医療研究室の東 範行医長・室長の研究グループは、この重症未熟児網膜症に対する新しい手術法を 2004 年に開発し、93%(全治癒 81%、部分治癒 12%)で網膜症の悪化を抑えることができることを明らかにしました。

 医学の進歩というのは素晴らしい、と心から思う。 

そして、同時にこの映画のラストシーンを思い出した。

 ■

ストロベリーショートケイクス [DVD]

ストロベリーショートケイクス [DVD]

 

このラストシーンでは、好きな男性の子どもを妊娠した女性が、海岸で煙草を吸っている。

彼女はデリヘル嬢として日々働いてきた。マンションを買ってその5階以上に住むのが目的。5階以上からでないと窓から飛び降りても死ねないから、というのがその理由。

映画の中に出てくるデリヘルを頼む男たちについては、その腐った性的嗜好が垣間見える。女性の体を物として扱うことでしか自分の何かを解消できない。どこまでも哀れな人間の姿。

それでもこういう過酷な状況で懸命に生きるデリヘル嬢が好きだ。…そう思ったのに、

最後の煙草を吸ってるシーン。あれを見て本当に幻滅した。

この女性にはずっと想い続けている男性がいる。この想いが報われることはないのだけど、一度、夜を共にできてその男性の子どもを身ごもることができる。にも関わらず、妊娠中に煙草を吸わせる、あのラストシーン。

最後に彼女をそういう風に描いたことに、何か意図があると思うのは私だけだろうか。生まれてくる子どもに何かの障害が残らないことを祈るばかり。

で、話は何だっけ、そう未熟児。

「努力する人間になってはいけない」(芦田宏直著)にこのような記述がありました。

普通胎児がこの世に生まれてくるのはお母さんのお腹に宿って十ヵ月と十日(とつきとおか)かかると言われていますが、それだけお母さんのお腹にいても、それでも人間は一年以上早産なのだとポルトマンは言いました。

人間は脳だけが過剰に大きくなったため、母体の骨盤がその大きさに耐えられない(通過できない)。だから、脳が小さいうちに、一年くらい早産で生まれてくるというものです。つまり、人間はみんな未熟児で生まれてくるわけです。

一年分は、母胎の中で生理的に育つのではなくて、下界に飛び出て、社会的な過程の中で育つとポルトマンは考えました。早産した分、人間の子供は、さまざまなことを生理的に学ぶのではなくて社会的に学ぶ。そこにこそポルトマンは人間社会が自然的環境を超えて、文明を持ったり、文化を有したりする根源を見たのです。

 

P68より引用

 アドルフ・ポルトマンという動物学者だそうです。

人間はどこまで動物か――新しい人間像のために (岩波新書)

人間はどこまで動物か――新しい人間像のために (岩波新書)

 

 ちょっと読んでみたい