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これからの民事訴訟法(井上治典著)

これからの民事訴訟法

これからの民事訴訟法


約30年前に書かれた書籍だが、今読んでも全く古さを感じさせない。

民事訴訟手続も当事者間の紛争解決の一過程にすぎないとして、訴訟外での私的自治による紛争解決を「補完」する役割を持つもの、との視点から一貫して書かれている。

従来の民事訴訟法が「判決による紛争解決」を確たる基準とし、そこから静的に民事訴訟法を解釈するのに対して、これを当事者の紛争解決状況に応じてより動的に捉えるべきとする点が特徴的。その視点は、将来給付の訴えの利益における請求適格や紛争管理権の概念において考慮されている要素と同じもの。

重要なのは、訴訟が当事者にとって紛争解決のための明確な行為規範となること。

主に裁判所と当事者の役割分担を中心に考えられていた民事訴訟法を、当事者間での役割分担を中心に据え、裁判所はその補佐役にすぎないと考える新しいスキームである。


これを読んでの一番の収穫。それは、当事者の確定の論点が当事者適格とは別に設定されている理由がようやく飲みこめたこと。

当事者の確定とは、当事者適格が訴訟提起段階という場面において特別に変容されたものなんだろう、という予測はあたっていたみたい。

実際、当事者確定の基準について、これを当事者適格と同様に考える「適格説」があり、通説的見解である実質的表示説(訴状の記載に加えて請求の趣旨も考慮して当事者を確定する説)も、確定される当事者を当事者適格を有する者と連動させるための理屈である点で、適格説と同じ流れである。これらの説からは、そもそも当事者の確定、というものの必要性から疑問が生じるような、そういう論点。

当事者の確定の議論で前提とされている価値判断は、現実に裁判に現れた者と訴状の記載とが異なった場合に、「訴え提起の段階から」当事者が誰かを明確にすべきであるというもの。

判例とされる表示説が訴状の記載を基準に当事者を確定するのも「訴え提起段階において」当事者を確定する必要があることを前提としているから。その理由は判決効の及ぶ対象を当初から明確にするため。背景には伝統的な民事訴訟法論、すなわち民事訴訟を訴え提起段階から動かない静的な手続きと捉えることで、基準としての明確性を重視すべきとする考えがある。

しかし、民事訴訟を紛争解決の一過程にすぎないと捉える本書の立場からは、訴え提起段階、というのはそれほど特別視すべき段階か?ということになる。
民事訴訟は当事者の紛争解決状況に応じてどんどん形を変えていくものであり、「当事者」が誰であるかも訴訟の進行に応じて変化しうる動的な概念と考える方が、実体にあってるのでは?とする。

当事者間での役割分担を重視すると、当事者の確定の論点は、結局、訴え提起段階において原告に適格者たる被告を選別すべき責任をどこまで追わせてよいか、の問題に解消される。

本来、訴え当初から相手を特定し訴訟に引っ張り出す責任があるのは原告。もっとも、これが被告側の事情によって不可能となった場合には、原告に被告特定の責任があるとはいえず、ある程度の適当な記載で許されるということ。


法人と法人の代表者、法人格否認の法理における旧当事者と新当事者、法人代表者の交代、などの場合にも同じような問題が起こるね。

本書では、被告側の事情により原告にとって被告とすべき者が明らかでないときは、原告に被告となりうる者を訴訟にひっぱりだす手段が認められるべきとする。これが、主観的予備的併合を認めるべき、とする解釈につながっていく。

主観的予備的併合とは、被告を誰にしたらいいのやら分からない、そういう場面であることを再認識。

学生「一般の教科書をみると、当事者という章では、まず確定が説明され、それから順に当事者能力や適格がふれられるということになりますが、先ほどからのお話をうかがっていると、先生のお考えでは、教科書の中から当事者の確定を抹消してもいいような印象をうけます。その点はどう考えたらいいんでしょうか。」


佐上「すでに確定理論はたいした重要性がないという批判もあります。ただわたくしのように考えると、従来当事者の確定の問題としては位置づけられていなかったところまで取り込むことになります。ここではむしろ、紛争主体特定責任という項目を教科書の中に設けるほうがいいのかもしれません。」

-p45より引用




井上治典先生の名前、印象に残っています。
http://bit.ly/19RrEUX