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There is nothing to writing. All you do is to sit down at typewriter, and bleed. - Ernest Hemingway

「長い間考え続けてきたことの答えの一端に、ほんのちょっとだけ手が触れたような気がした。」

とてもびっくりしている。
それは、もう、とても。
 
Tak.(@takwordpiece)さんのブログを読んで、こう思う人は少なくないんじゃないのかな。
教科書でも参考書でも、頭から写経のように何度も書き写す。次に頭から自分の言葉に置き換えながら書き直す。何回も書き直しているうちに文面は原型をとどめないくらいになる。そこまでくる頃には内容は頭に焼き付いている。
何に驚いたかって、子どものうちから、物事を自分の基準で再構成し、その過程を通じて理解し、記憶するという、まさに〈思考〉の方法を、(たぶん誰に教わるでもなく)身につけてしまっていること。
 
これは、ものすごい天才的なことなのじゃないかと私は思う。
 
もし自分に子供がいたなら、まさにこれこそが身につけさせたい力だ。教育の目指すところが、ここ以外にあるだろうか?
 
小学校高学年の段階というと、まだ思考のベースになる知識を蓄えている途中の段階。にも関わらず、知識とは自分で他のものに置き換えられるもの、そしてそれは自分のやり方で再構成できるものだということを、Tak.さんは既に知っている。
 
他者と自己を峻別する力。
これが子どものうちに、意識的にせよ無意識的にせよ自分の中に存在する、というのは、明らかにギフトだろう。小さい頃に既にその視点を獲得していて、アウトライナー的思考をし続けることで、その力をより大きく育ててきたんだろうと思う。斉藤孝さんは「読書力」という本の中で「読書力とは、他人を自分の中に住まわせること」というような表現をしていたけど、まさにこれなんじゃないか、と思った。
 
少し想像しただけでも伝わってくる。
それは時間のかかる困難なプロセスだったのだろうと思う。
 
私がアウトライナーを使い始めたのは、いつだったか、
もうはっきりとは覚えてないけど、初めてそれを使ったとき、やっと自分の頭の動き方がわかるような気がして、とても嬉しかった。
 
私は、小さい頃記憶力がよかった。
記憶に理屈は必要なかった。
ただ、それを見さえすれば記憶に残る、写真のようなイメージだ。
 
だから、物事を考えるということがどういうことなのか、なんのためにそれが必要なのか、理解してなかった。というより、理解してないことを意識する機会がなかった。意味を考えることもなく、前後の順番を考えることもなく、想像することすら必要でなかった。
 
物心がついたときにはそういう状況だった。だから、当然周りの皆もそうなんだろうと思っていたし、そのことで後々苦労するなんて全然分からなかった。
 
でも、あるきっかけで、 自分の頭の動きがどうやら多くの人と少し違うらしいことに気づいた。そのことを認識した途端、不思議なんだけど全く本が読めなくなった。
今振り返ってみると、当然だと思ってたことに疑問を持ってしまったことで、今までそれなりに無意識にやっていたことがうまくできなくなった気がする。
 
本を読む、ということがどういう手順で成り立っているのか、言語化しなければならならなくなった。何度もその手順を反復して、「考える」ということがどういうことなのか「体験」する必要があった。
 
外国語を読むように、日本語も主語、述語、目的語に分けて、線を引きながら、必死で読んだ。
その最初の本が、伊藤眞の民事訴訟法。

 

民事訴訟法 第4版

民事訴訟法 第4版

 

もうとっくに大人の年齢だったし、それなりに勉強してきた、というプライドだってあった。だから、これは本当に先の見えないつらい闘いだったけれど、なんとか本が読める状態に戻ってきて、今は少しずつ自分を取り戻している気持ちがする。

もう10年も前のこと。
 
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 思考がまず先にある。記憶はその結果にすぎない。
 
これを今の学校教育の下で、子供に身を持って体験してもらうことは、簡単ではないのだろうな。その結果は、大人にならないと見えないから。