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There is nothing to writing. All you do is to sit down at typewriter, and bleed. - Ernest Hemingway

ドラマ「ラスト・フレンズ」とリバタリアニズム

2008年春にやってたドラマ。久しぶりに見ました。 オープニングの映像も、宇多田ヒカルの主題歌も、ストーリーも大好きでした。

ラスト・フレンズ - Wikipedia

放映当時は、上野樹里がただただカッコ良くてほぼそれだけを見てたような気がする(笑)。 でも、今回見直してみて錦戸亮演じる及川宗佑に興味が惹かれました。 及川宗佑の役所について、wikiのまとめはこんな感じ。

及川 宗佑〈24〉
演- 錦戸亮関ジャニ∞

役所の児童福祉課で働く美知留の恋人。
幼少期に母親に捨てられ、その後親戚中をたらい回しにされた過去を持つ。頭脳明晰で誰に対しても優しく接する好青年。しかしその裏では、あまりにも美知留を思うがゆえでもある強い執着心と独占欲から、常に美知留を監視して行動を束縛し、自分の思いどおりにならない状況になると些細なことから美知留に対しDVを受けさせるようになる。
美知留の心身に受けた傷を見た瑠可やタケルたちがシェアハウスに匿ったことで美知留が自分の元からいなくなると、そのことを逆恨みして彼女に関わった人間(特に瑠可やシェアハウスの住人)を敵視し、美知留に対してはストーカーと化している。
再び美知留が自分の元に戻るように、美知留の母・千夏を利用したり、シェアハウスの住人に様々な嫌がらせをしているが、かつての自分と似た境遇にいる直也に対しては、心優しい一面見せている。美知留に別れを告げられてからは行動が一層エスカレートし、タケルや瑠可にも暴力を振るった。
その後美知留を騙して部屋に誘い込み、彼女をレイプし妊娠させた。しかし美知留がシェアハウスの住人たちに囲まれて笑顔を見せる写真を目にし、自分では美知留の支えになれないことを悟ると自身の想いを綴った手紙を遺して、自ら命を絶った。

「しかし美知留がシェアハウスの住人たちに囲まれて笑顔を見せる写真を目にし、自分では美知留の支えになれないことを悟ると」

今、引用してみて私の解釈と違うのでちょっとびっくりした。
これはかなり宗佑を肯定的に見ている書き方だな。

宗佑の生い立ちについて、ドラマの中では直接に明らかにはされていない。
でも、美知留に対する激しい暴力と、美知留を家に閉じ込め外との接触を認めない歪んだ激しい愛情と、その間を行ったり来たりする宗佑の姿を見て、これは母親に対する感情なんだろうと思った。 母親から見捨てられた経験が、彼女と母親とを同一視させる原因なのかな、と。激しい憎しみ、怒りと見捨てられることへの不安。
ドラマのオープニングでは、登場人物それぞれを一言で表した言葉が添えられるのだけど、宗佑は「contradiction」だった。

生い立ちをみると確かに同情するところがある。
先に引用したwikiの説明にある宗佑の自殺の原因の書き方もそれを表してるように見える。宗佑に関しては、多くの人が死んでも仕方がないと思うんじゃないかな。というより、死ぬことでのみ最後を飾る、救われる、みたいな。
悲しいことだけれど、こういう命は確かに存在する。

それでも、宗佑はまだ死ぬことで救われるからましなのだ。
生育環境が劣悪だった、そういう後天的な事情ならば、死ぬことで自分を飾れる部分もある。また、そうでなくてもその後の矯正や教育でどうにでも変わる可能性はある。

じゃぁ、これが快楽殺人者だったらどうだろうか。
手当たり次第人を殺していく人間なんて社会から抹殺するしかない。
でも、これが脳の先天的な「異常」によるものだったとしたら?
もうどうにも、治療の仕様もない、矯正も教育の余地もない、そういうものだったら? 同情されることもなく、ただ社会に殺されて、ああ、よかった、ただそれだけ。
人間の世界に産み落とされてしまっただけなのに。
でも、この人間の世界に快楽殺人者の存在を許しておくわけにはいかないだろう。

「生まれてくる場所を間違えた命」、それは確かに存在する。

私がリベラリズムよりもリバタリアニズムだと思うのは、こういう「生まれてくる場所を間違えた命」というものの存在を否定できないから。
福祉主義の大前提にされている「弱者は救済しなければならない」。それがどうにもなじめない。 「人間は助けるべき」とか「生まれてきたことに感謝しなければならない」とか、生きることを絶対視する姿勢、それこそがマイノリティへの無理解を表しているように思う。
リベラリズムの人には、かつてその存在が明らかでなかった快楽殺人者のような「人間」の存在についてはどう考えるのか、それを聞いてみたい。

新しい思想は常に人間の変化から生まれてくる。
そう思うと、彼女が必要だと思わない男の子が増えている、とかそういうニュースを聞くと、「あー、もしかしたら人間がそろそろ遺伝子から見捨てられる存在になりつつあるんじゃないかなー」的なことを思ったりします。 もし性欲がない人間がこのままどんどん増えていくと、男女の区別というものも必要でなくなってくるんだろうし、すべて人間と人間の関係、つまり「友情」ってことになるんだろうな。 それって、人間が滅亡する第一歩ってことだよね。 終わりの始まり。

でも、進化の過程を見ていたら、人間を駆逐する別の存在が出てくる、というのは必然なわけで。

今の時代に生きられたことを感謝するばかりです。

だからこそ、人間の多様性というのは大事なんだな、と思う。 このまま新しい形の人間が増えていってしまったら、遺伝子の思うまま、よー

多様性こそ完全性」。

人間は利己的な生き物。それでいい。利己的に生きた結果、それがちょっとでも他人の役に立つならもっといい。

そんなことを思いながら、この本を読んでます。

リバタリアンはこう考える: 法哲学論集 (学術選書)

リバタリアンはこう考える: 法哲学論集 (学術選書)

ま、だからといって、生まれながらにまともな「頭」を持たせてもらった人間が、利己的に他人を傷つけることを肯定する気はさらさらありませんが。