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There is nothing to writing. All you do is to sit down at typewriter, and bleed. - Ernest Hemingway

民法改正の話−個人の意思とか群集心理とか実は男女間の問題だよとか。

朝日新聞読んでたら見つけました。

「約款」に関する民法(債権法)「現代化」への改正に動き - 法と経済のジャーナル Asahi Judiciary

現在、民法の契約に関する規定について制定以来100年ぶりに改正が検討されている。 約款の定義とその拘束力を民法上明記しようというのもその一つ。

契約の拘束力の根拠は、契約内容について当事者相互が理解していることを前提に、その内容に従うことを決めた各当事者の意思にある。

でも、上記引用記事にもある通り、約款なんてハナから読めもしないような細かくて、これでもかー、みたいな大量の文字で書かれてあって、いちいち読んで内容を理解しろもへったくれもないだろう、というのが普通だよね。だいたいそんなもの読んでるヒマもないしって、でも定型の形があるんだろうから、弁護士が見れば見るべきポイントっていうのは分かるのだろうな。

で、こういう約款を使われる場面での当事者の合意なんて、あってないようなもの、という実態を法律に反映させようという試みが冒頭の約款の定義とその拘束力を明記しようという改正論議。

これって、拘束力の根拠を当事者の意思に求める契約理論を前提とした民法−商法−会社法等の私法の体系の根本の変更を迫るものだよね。 拘束力、要はルールに服従させる根拠を当事者意思以外のものに求める。
当事者意思以外って強制力だよね。 現在の法律の下では、個人の意思如何に関わらず強制力を行使できるのって政府だけだけど、約款の拘束力の議論が強制力の行使(あるいはそれに類似したもの)を民間にも認める考えなら、それはアナルコキャピタリズムを含むリバタリアニズムコミュニタリアニズムへの流れそのままなんじゃないだろうか。

それとも当事者意思と国家の強制力の間に、まだ何か別の概念を考える余地はあるんだろうか。 そういう概念を考える余地があるかはよく分からないけど、民間と政府、それしか観念できないのだとしたら、民間同士で個人の意思とは離れた強制力を働かせるルールをつくるということになる。

これを個々の案件に対する解釈としてではなく、国民全体のルールという法律として明記してしまうことの意味を考えると少し怖い。
確かに、人間も社会も少しずつ進歩している。でも進歩している人がいるなら進歩してない人だって同じようにいる。格差社会?それって何だろう。

進歩してきた人間、それを思うたびにニーチェの超人思想を思い出す。
もちろん「超人」なんて超人じゃない人がたくさんいないと成り立たないし、そもそも本当に超人である人は、自身が超人であることなんて認識してないんだけどね。 ただ、リバタリアニズムに対して、超人思想だっていう批判ってどうしてそんなに人間に対して悲観的なのかな、と思う。

リバタリアニズムを、そんなのユートピアだ、そういう批判をしているだけでは何も変わらない。人間は確実に多様化しているから。ナチズムの思想的背景として使われた過去の歴史があるにせよ、それを批判して現状に留まるだけではそれこそ過去の失敗を繰り返すだけのニヒリズムになってしまうんじゃないかな。ニーチェの「永劫回帰」。これはニヒリズムとは全く違う。

その思想の一端はスカイクロラにも表れている、と思う。
↓こちらはストーリーが5分で分かる予告編です。

The Sky Crawlers 1 Trailer raw - YouTube

「愛と生と死の物語」ね、、。ファンとしては陳腐な表現としか思えないし、絢香のこの主題歌も果たして広告としてどこまで成功してるのやら、意味不明だけど。 あー、分かりやすい表現に「治されてる」ところが違和感いっぱい。気持ちが悪い。

そういえば、前に映画館へ「イノセント・ガーデン」を見に行った時、予告で流れてたこの映画。こないだTSUTAYAいったらDVDになってたのを見つけた。

予告見てちょっと面白そうって思ったんだよね。

映画『コンプライアンス 服従の心理』日本版予告編映像 - YouTube

服従の心理、建前ホッブズと実質ヒュームを思い出す。 国家形成の過程、これって秩序形成のために「何か」に服従する、その歴史でもある。

で、服従の心理、で思い出したのがこれ。

傍観者効果 - Wikipedia

なんでだろう。自分自身の安全を守る、それに体が支配されてしまう状態、ということつながりだろうか。

英語のwikiも見てみたけど、

Murder of Kitty Genovese - Wikipedia, the free encyclopedia

こっちはもうちょっと面白い見解が書いてある。 psychological researchのとこ。

In September 2007, the American Psychologist published an examination of the factual basis of coverage of the Kitty Genovese murder in psychology textbooks. The three authors concluded that the story is more parable than fact, largely because of inaccurate newspaper coverage at the time of the incident. According to the authors, "despite this absence of evidence, the story continues to inhabit our introductory social psychology textbooks (and thus the minds of future social psychologists)." One interpretation of the parable is that the drama and ease of teaching the exaggerated story make it easier for professors to capture student attention and interest.

ちょっと誇張されすぎている、その事実を踏まえた方がいいみたいだ。
そして、

Psychologist Frances Cherry has suggested the interpretation of the murder as an issue of bystander intervention is incomplete. She has pointed to additional research such as that of Borofsky and Shotland demonstrating that people, especially at that time, were unlikely to intervene if they believed a man was attacking his wife or girlfriend. She has suggested that the issue might be better understood in terms of male/female power relations.

群集心理の問題というより、男女間のパワー関係の問題として捉えた方が適切なんじゃないって話のようだ。これはちょっと面白い。これwikiの注釈によると1997年の文献がもとになってるらしい。

でもー、これ

キティ・ジェノヴィーズ事件〜傍観者効果/『服従実験とは何だったのか スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産』トーマス・ブラス - 古本屋の覚え書き

これ読むと、

住民たちの多くは、若い女性が殺されるというような非常事態が発生していることを受け入れることさえもできなかったのである。かわりに人びとはこの出来事を、よりもっともらしく、心を悩ますことのないものであると考えようとした。たとえば、恋人同士のケンカや、酔っぱらいが騒いでいるだけであるというような解釈をしがちになるのである。

上記はこの本からの引用。2008年出版。

服従実験とは何だったのか―スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産

服従実験とは何だったのか―スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産

やっぱり、自分自身の安全を守る、そうするように意識は体を支配する、そういうことでよい気がする。心、というのはそういうもの。身の安全を守るためなら意識は何だってつくりだす。幻覚だろうが幻聴だろうが、別人格だろうが、なんだって。

wikiって芸能ニュースは光の早さで更新されるのに、こういうことって更新されないのねー。 インターネットね。