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There is nothing to writing. All you do is to sit down at typewriter, and bleed. - Ernest Hemingway

「公益」−個人の集約?

行政法百選の原告適格らへんを読みながら、行政法ってなんだろうなー、なんてことをぽんやり考える。

行訴法関連の判例を読んでいると行政府が縄張り確保に一生懸命になっている様子が伝わってくる。我々は国民が決めたルールに則って粛々とこれを執行する、その過程や内部に裁判所には立ち入らせまいとする感じ。でも、この感じが最高裁の判決文から漂ってくる、というのは何でしょう。権力分立の真の姿?

裁判で糾弾すべき行政の行為が「処分性」の要件を満たすかどうか不明の場合、抗告訴訟民事訴訟(又は実質的当事者訴訟)を併合提起するというのが実務のようだけれど、抗告訴訟民事訴訟の境が曖昧にされたまま、なかなか議論が進んでないように見えるのはなぜなんだろうな。 処分性の有無が微妙な場合に、行政訴訟民事訴訟も、って安易にいけるとすると、取消訴訟が出訴期間や出訴方法を限定した趣旨を没却するのは確かねー。でも、実際被害受けてるその人の救済やら裁判を受ける権利やら、そういうものは置いてけぼり感満載。

この置いてけぼり感を一番感じるのが、第三者の原告適格のとこ。
処分相手以外の第三者に原告適格を認める規範、「処分の根拠法規が、不特定多数の具体的利益を一般公益の中に吸収解消させるにとどめず、それが帰属する個々人の具体的な利益としてもこれを保護する趣旨と解される場合」。

これが認められる場合って、一般公益を超えるほどの個人の利益を個別の行政法が保護していると解釈することだけど、「一般公益を超える個人の利益」を保護するというのは、憲法の仕事とかぶってくるんじゃないのかなー。ここらへんのあてはめは憲法の解釈とどう違うんだろう。

第三者の原告適格を判断する上で被侵害利益の重要性が重要な考慮要素となるって、もんじゅ判決で言われているけど、特急料金の値上げに対する認可処分の取消訴訟原告適格については、どうも百選に掲載されている判旨だけではこれを否定する理屈がよく分からない。感覚的に特急料金の値上げ額自体たいしたことないんだろうと思う。それに、行政府としてはいちいち訴訟対応させられるのもいい加減にして!って感じなんだろう。でも、これが「経済的利益が生命身体の安全よりも被侵害利益として重要でない」と考えられてる結果なんだとしたら、結局行政法においても憲法の二重の基準が妥当してるって考えていいんだろうか。まー、でも行政訴訟法が行政と司法の対立局面、もとい役割分担だとするなら、むしろ憲法と同じ基準で判断されないとおかしいってことになるのかも。

いずれにせよ、原告適格を認められなかった方々が、裁判所で救済されないから政治過程で行政を是正しましょう、デモだ、選挙だ、なんてたぶん難しいわけで、被害を受けた人はちょっと運が悪かったね、甘受するしかないね、大多数の人には無関係だもの、ということになってしまうのだな。マイノリティを守る憲法大事ね。

そういや、憲法復習しながら、投票価値の平等のとこ読んでて「一人一票運動」っていうのは何なんだろうな、と思った。
投票価値の平等の実現って、あれこそ大都市の横暴以外の何者でもないように見える。人口比例っていう形式的平等を貫くことで実現される「人格権」って何でしょうか。

先日、「一人一票訴訟の裁判で裁判官がろくに弁論を聞かず眠たそうにしてた」っていうつぶやきを見たけれど、その裁判官は意図せずして、少数者の権利保護の最後の砦という裁判所のあるべき姿を示したのかもしれないな、とか思いました。

んで、第三者の原告適格のとこが分からん、そもそも「公益」って何だろうかと、もんもんとしていたとこに、ナイスなタイミングで目に飛び込んできました。この本@図書館↓。

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル

本の内容を一言で要約すると、これからの選挙は「無関心層」が鍵を握っている、ということ。社会のポストモダン化により価値観が多様化しちゃって政治が無力化している現代において、これからの民主主義はどうあるべきか、国民の意思をどう国家政策に反映していけばいいのか、その鍵はインターネットを初めとする情報技術が握っている。間接民主主義の否定?直接民主主義の肯定?いやいや、そもそもそういうこと自体が意識化されていない政治に無関心な層の「無意識」を情報技術を使って国政の場に反映させることができれば、より理想に近い間接民主主義制度になるのでは?という主張(政治に無関心な層…、はい、私のことです…)。

無意識」を一つのキーワードに、ルソー、ヘーゲルフロイトノージックまでを著者なりの面白い解釈で説明してあって楽しく読めました。

ルソーの一般意志について、本書ではこれを「個々人の差異の和」と定義します。
差異のある人がいればいるほど一般意志に近づく。そのため、ルソーは、個の差異の数を減らす結果になる結社の自由を否定するし、更に政治の場における個々人のコミュニケーション自体をも否定する。政治にコミュニケーションは不要である。ただ、同じでないたくさんの人が存在すればそれでいい。個々人の社会契約により共同体が生み出された後は、選挙や議会における討論を含むいかなる政治的コミュニケーションが存在しなくても自然に数学的に存在してしまう「物質」に近いもの。これがルソーのいう一般意志の正体である、と。なるほど。

「集団の多様性が高ければ高いほど、集合知の精度は上がる」

「公益」って何だろう?