LawDesiGn

There is nothing to writing. All you do is to sit down at typewriter, and bleed. - Ernest Hemingway

Lyricsについて(比喩という暗号)

8:54  阿川佐和子の著書に『婚約のあとで』というものがある。数人の女性が主人公の短編小説だ。

その中に「宙」(そら)という名の女性が主人公の話がある。宙は視覚障害を抱えている。宙には、勤務先で知り合って付き合い始めた彼がいる。彼は健常者だ。話は、彼と宙の結婚話を中心に進んでいく。

彼の結婚の申込みに対して宙は躊躇する。宙の中では結婚、それも健常者との結婚などありえないことだった。自分は彼の重荷にしかならない。いずれ二人の間に子供ができたときに、その子供に障害がでないと誰が保証できるだろうか。かといって、自分の好きな男性を父親にできないというやり切れなさも消えない。

相手を好きであればあるほど健康な女性と結婚して欲しいと思うのは、女性として当然の願いだろう。

子供は望まない、彼はそう言ってくれるのかもしれない。でも、後世に自分の遺伝子を残したい。そう思うのは人間の自然な感情だ。そのために、健康な妻であれば生じない多くの悩みや葛藤を、将来夫に抱えさせることになるかもしれない。その苦しさで夫は他の人と人生を過ごしたいと考え始めるかもしれない。

夫がそう思ったとしても無理はない。妻はそれを否定することはできない。
もしそういう悲しい事態がおこった場合、二人に何か建設的な解決策があるだろうか、それはそう簡単には見つからない。…そういう無限に続く不安が、常に結婚生活につきまとうのではないか‥。

日常生活に支障をきたす程度、それを障害というとして、障害者と暮らしていくことがどういうことか、それを経験していない健常者に理解してもらうことはたぶん人が思うほど容易ではない。

なんとかなる。そう、確かになんとかなるのかもしれない。健常者同士の夫婦にだって困難なことは山ほどある。だから大丈夫だ。

「自分は悪い方向へ考え過ぎなのだ。だって、物事の見方は人の数だけあるんだもの。感情を作り出すのは起こってしまった不幸な出来事ではない、その出来事に対する自分の考え方が悲観的な感情を作り出しているだけだ。」

これは、多くの人が正しいとする考え方に違いない。人生考え方一つだというのは、多くの宗教やセラビーが教えるところでもある。実際にそれは人間が生きていくための良い知恵なのは確かだ。

しかし、そうした「考え方の転換」が諸刃の剣であることもまた、頭の片隅で認識していなければならない。考え方の転換には多くの努力がいる。にも関わらず、その努力が一層心の重荷を大きくし何かを悪化させてしまう場合もある。考え方を転換させるということは、それほど恐ろしい面がある。自分に対して必罰的な人は、特に自分のそういう性質を認識しておかねばならない。

病状が悪化してその時に一体誰が責任がとれるだろう。それを背負うのは、家族であり夫なのだから。

宙に関して言えば、病状が悪化する可能性というのは低いのかもしれない。しかし、人の気持ちや環境は変化していく。今後の二人の生活を考えたとき、彼との結婚に宙が躊躇するのも無理からぬ心理だと思う。

「比喩」というのは素敵なことだ。特に、想いあっている二人の間だけで分かる暗号のような比喩や暗喩。恋人同士の甘い幸せなやりとり。

でも、それさえも現実認識が困難な者にとって、時に恐ろしい表現になることがある。それを想像できる人がどれだけいるだろう。

もちろん、健常者にとってその想像が難しいことを非難しているのではない。全くの健常者がそんなことを想像できないのは当たり前の話だ。健常者にとって暗喩や比喩で愛を伝えるとき。それはその人の気持ちの伝え方なのかもしれないし、またははっきりとは言えない何か事情があるのかもしれない。そう思えるなら、障害者にとってもその比喩を理解しようと努めることはとても大事なことだ。

でも、比喩や暗喩によるコミュニケーションは、精神疾患の傾向がある者の目には、それが病状の悪化と映ってしまうときがある。その暗喩が意味するものは自分の望みが見せる虚構かも知れない。彼らは常にその頭の半分では、自分が認識している「現実」が虚構であるという可能性を捨て切ることができない。何しろ、『現実』と『幻覚』の境界線を簡単に跨げてしまう人種だからだ。

客観的な事実もなしに、一体どうやって比喩や暗喩を愛情表現ととればいいだろう。それが自分が望むことであればなおさらだ。「通常ならこう受け取っていいはずだ、そう受け取りたい、でも、それはもしかしたら自分の病状が悪化していることの表れなんじゃないか。病状はますます悪くなっているんじゃないか。」

統合失調症患者のうち、ある程度軽度なレベルの方は、現実と幻覚との間に生きている人が多い。調子がよければ現実に戻れるかもしれないが、調子が悪ければ幻覚の中にしか生きられない状態にある。

だから、なるべく頭の中で出来上がるストーリーを信じないように現実に確かめたもの以外は事実かどうか分からない、と強く考えるように練習する。たとえ、自分の目に見える景色でも、自分の耳に聴こえてくる音でも、それが幻覚や幻聴である可能性を常に頭に置いておかなければならない。自分自身の何一つあてにできない。それが現実認識が難しいということの意味だ。

そして、現実に確かめられない事実は自分の希望次第でいかようにも見えてしまう。だから、そうしないように必死で頭の中で出来上がるストーリーを否定する。なんとか日常生活に支障が出ずに生活していけるようにするために。

私が人づてに聞いた話で、やはり同じような症状を抱えている人がいる。 その人は調子が悪くなると、こびとが見えるそうだ。彼女は、こびとが見えたら「あー、今体調が悪いんだな」というサインだと捉えるようにしているとのことだった。他の人の目には見えない彼女のこびとは、虚構の世界に迷い込ませないように彼女を現実に押しとどめる大切な防波堤なのだ。心というものは、そうして自分を守る。

それがどういう状態なのか、健常者に理解できる話ではないだろう。むしろ理解できる方が不思議なくらいだ。健常者と障害者の間の溝というのは、本人たちの努力ではどうしようもない部分がある。それが現状だ。

ただ、そこに救いを見出すものが哲学なのだ。哲学者とは、常に現実と虚構の間にあって、なお必死で現実の人間として生きようとするそういう人種のように思う。

「当然のことは当然ではない。自分の感覚はあてにならない。自分を確かに信じることができない。では何を支えに生きていけばいいのか。」これはデカルトの思想の出発点だ。 「我思う。ゆえに我あり。」とは、単純に考えろという意味ではない。考えろという言葉の前提には「考える主体」というものが明確な前提とされているからだ。

「健常者と障害者の間の溝というのは、本人たちの努力ではどうしようもない部分がある。」

これを考えるときに、思い出す小説が『ノルウェイの森』だ。 私がこの小説をが好きになれない一番の理由もここにある。

ただただ精神を病んだ直子を美しく書きながら、そして最後には直子は死ぬことになる。彼女はやはりこの世で生きていくには、あまりにも弱すぎた。

あの小説は、健常者と障害者の埋めることの出来ない溝が存在することを残酷に書き表している。

直子に必要だったものは何だろうか。彼女は、放っておくと幻覚の中に進んでいってしまうエスカレーターにのっているようなものだ。そのエスカレーターが主人公には見えなかった点で、主人公と直子の結末はあれしかなかったのだろうと私は思う。

ノルウェイの森』を読んだ人は、何を感じるんだろうか。深い愛情をもってしてもそのどうにもならない現実の溝を見て、心を打たれるのだろうか。

9:51 私は、それをとても羨ましく思う。

Love and Hell:Word Piece >>by Tak.:So-netブログ

好きなエントリから引用。

(あなた)のことを想像はできても理解はできない。

(あなた)の中には(わたし)に見えない地獄がある。(わたし)の中に(あなた)に見えない地獄があるように。

(あなた)の地獄の存在を知り、理解したいと願い、全力で想像することをたぶん愛という。

でも(あなた)のことを想像はできても理解はできない。

愛することが苦しいのは、いかに想像したところでそれが本質的に不可能なことだからだ。

それでも(わたし)は(あなた)のことを全力で想像するしかない。ロジックだけではなく五感の全てを使って。

(あなた)の地獄は何だろう。

参考リンク

「世界は暗喩に満ちている」−overtones - LawDesiGn

(4300文字)