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There is nothing to writing. All you do is to sit down at typewriter, and bleed. - Ernest Hemingway

目に見えるカタチは時としてその内実を表す、ということーEvernoteとアウトライナー


Evernoteアウトライナーの役割分担についてのエントリは「word piece」の中でも特に好きな記事の一つ。

アウトライナー・フリーク的Evernote論:Word Piece >>by Tak.:So-netブログ

このエントリの中でTak.さん(@takwordpiece)は、Evernoteを記憶のための道具、アウトライナーを思考のための道具とした上で、次のような疑問を呈している。

どうして同じ知的活動であるはずの〈記憶〉と〈思考〉とで道具のカタチが違うんだろう? 〈記憶〉は〈思考〉を誘発し、〈思考〉した結果は〈記憶〉されるはず。
アウトライナー・フリーク的Evernote論:Word Piece >>by Tak.:So-netブログ

考えてみた。
〈記憶〉と〈思考〉は、「分解」を分岐点に、正反対の途を辿っていくものなのかもしれない。
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「どうして同じ知的活動であるはずの〈記憶〉と〈思考〉とで道具のカタチが違うんだろう? 〈記憶〉は〈思考〉を誘発し、〈思考〉した結果は〈記憶〉されるはず。」

その答えとして思うのは、それこそがまさに人の〈記憶〉と思考の仕方だから。
つまり、大多数の人にとって〈記憶〉とは〈思考〉の結果ではない、ということじゃないだろうか。

思考にはボトムアップトップダウンの2種類が存在する。
ここで私がいう〈思考〉とはボトムアップ思考のこと。秩序のない断片を入れ替えて共通点を探し出していく動的なボトムアップ〈思考〉と、既にある体系に沿って断片をきれいに整理する静的なトップダウン思考。

ボトムアップ〈思考〉には常に出来上がりつつある体系らしきものを検討し、修正し、時には破壊し、そういう苦渋の創作のプロセスが介在している。これに対して、トップダウン思考というのは、出発点が既に決まっていて「所与のもの」を前提としている。もっと穏やかで整然としたもの。帰納と演繹。経験と理性。


そして、世の中で生きていくために必要とされるのは大抵がこのトップダウン思考だ。なぜなら、生きてくために最も必要なものは「再現性」だから。

ものごとを再現するためには、そこに至るまでの手順を自分で導き出せることが必要になる。そのためには、ものごとを分解しどういう手順で成り立っているのか、その仕組みを分析する必要がある*1
学校教育はこの再現性を獲得するためにある。高校までの「勉強」とは、このトップダウン思考を完成させる手順を学ぶことだ。既にある体系を分解し再度同じ上位概念へ構成できる、これが「理解」であって、その思考手順を何度もたどることで〈記憶〉がつくられる。こうして取得した体系の構造は、その後の〈思考〉の不可欠のベースとなる。このベースが「知識」と呼ばれるものであって、きれいに整理され位置づけられた知識は、必要なときに自在に取り出すことができ、そして元の位置へ戻すことができる。これが「検索」。

個々の知識を整理し、検索すること。
それは、まさにEvernoteを完成させる作業。

Evernoteのアウトライン機能が断片同士を動かすことができない仕様である、というのはまさに「そうであるべき」だからなのかもしれない。
だって、Evernoteのコンセプトは「すべてを記憶する」なのだから。


アウトライナーにいう〈思考〉は、この体系化(あるいは体系化に基づく〈記憶〉)の更に先にあるもの。
既にある体系を壊すもの。
Evernoteよりももっとずっと暴力的なもの。
もっと非日常の世界。

Evernoteの普及の度合いと比較して、アウトライナーが未だマイノリティの地位に甘んじていること。
これは、大多数の人にとって〈思考〉は〈記憶〉ほど必要なものではない、という事実を表すものなのかもしれない。そして、大多数の人は思うよりもっと平和的なのかもしれない。


目に見えるカタチ。
カタチは時にその内実全てを表す。






化粧だいじ?。うん。はい。だいじ。
クリスマス近いしね。

*1:その手順を導きだすことが苦手なことは、GTDにおけるタスクの洗い出しが苦手なことと関係しているように思う。