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There is nothing to writing. All you do is to sit down at typewriter, and bleed. - Ernest Hemingway

(記憶+想起→表現):ダイアグラム→アウトライナー→ドキュメント

1:1の個別指導塾でバイトしてた大学1年の頃。
担当した子の一人から「覚えるってどうやったらいいの?」と聞かれたことがある。

正直考えたことがなかったので、どう答えていいかとまどった。
「覚えるってただ覚えるって言う以上になんて言えばいいんだ。」と思いながら、「私の場合は、ひたすら手で書くよ。」って答えた*1

今振り返ると、それが「無意識にしているもの」を意識した最初のように思う。
「いい選手はいい監督にはなれない。」とはよく言うけど、物事を始めるのに最初から上手く出来ている人に聞いても参考にならないことが多い。手順を言葉にする、というのはその手順自体を意識に昇らせて表現する必要があるわけで、そもそも無意識下で出来ている人はそれを意識に昇らせる必要がないからだ。

こんな昔の記憶を思い出しながら、じゃぁ「覚えたものを表現する」のはどうしたらいいんだろうと考えている。「覚える方法」を意識したことはないけど、「表現する方法」にはいつも悩まされている。表現の前提には、記憶の想起というステップがあるから、要はインプット→インプットの想起→アウトプットのうち、想起とアウトプットのどちらかあるいは両方が、うまく機能してないんだろな。

インプットしたものを、その想起を経てアウトプットする、とはどういうことなんだろう。

「インプットしたものを、その想起を経てアウトプットするとはどういうことか。」
私に背後霊のように常につきまとうこの疑問を解決すべく、最近図書館に行くようにしてみている。

その当面の目的は、あえて借りないでその場で読み切ること。
家に持って帰っちゃうと積ん読状態で返却期限を迎えてしまうこともしばしばなので、なるべくその場で読み通してメモするようにしてみている。

まず、本の流れをつかむ。
書きながらキーワードを抜き書きしてその関係を矢印で結んでいく。途中で新たなテーマが出てきて本全体を貫くキーワードとの関係が見えなくなったら、もう一度今の話題と元のキーワードを矢印でつなげられるように流れを確認する。それは本一冊全体を通してでもいいし、本のある部分だけでもいい。自分に必要なところを必要なだけノートに書いていく。これをコンピュータを使ってやるなら、ダイアグラムアプリで言葉をつなげていく感じ。

こんな感じで全頁をめくり終える。
よっし、読んだ!楽しかった!さー、家帰ってブログに書いてみようー、と思いながら、ほくほくして家に向かう。 だけど、いざ家に帰ってノート見返しても文章になってくれないんだよね…。 これが「文章にする」ではなくて「口で説明する」ときは大丈夫なんだろうな*2。覚えてる図を紙に書いてペンで言葉のつながりを書きながら話す。相手に伝わらないところは質問してもらえるから、その場で補充もできる。まさに会話のメリットはそこにあるよね。書き言葉と話し言葉の違い、口述筆記の違いを改めて考えたくなる。

それはさておき、

図として記憶しているものを文章にするのがとても負担。

それが今の課題。

さて、課題解決の王道は、まずそのプロセスをつぶさに観察して細切れにすること。

「図→文章」へ一気に変換するのがつらいんだろうかなー。
そう思うとやはり登場するのが、じゃーん、アウトライナー!というわけで、手書きのフリーライティングから愛するアウトライナーに戻ってきた。

「図→いきなり文章をつくる」じゃなくて、
「図→一文ずつアウトライナーにのせる→結果として文章になる

こんな軽い気持ちでやってみよう。
はー、正直一文ずつだって気が重いんだよね…。キーワードならそのつながり方を考えるのがとても楽しいのに、一文の形にした途端、そのつながり方を考えるのがだるすぎるっていうのは何だ…。昔年の謎。

文章の書き方的なブログやアウトライナーの記事は大好きでよく見ているんだけど、一文と一文のつなげていき方、という点にフォーカスしたエントリをあまり目にしたことがない。ちなみに、こういう作業と並行して法律翻訳を学びたいと思うのは「単語のつながりと並べ方」については、英語の方がより厳密に要求されるから。英語でこれを訓練することは、日本語の文章作成能力の向上にも相乗効果をもたらしてくれるはず。いや、でもこれって「論理」の話なんだろうけどね。

個人的には論理なんて3つしかないと思っていて、どんな文章だって、イコール(=)か反対(⇆)か因果関係(→)か、それに集約されるだろうと思ってるのだけど、これがキーワードじゃなくて一文の形で目にした途端、どうも何かのシャッターが私の中で降りてしまうらしい。

こんな経緯で、やはり私はアウトライナーに戻ってくるわけで、アウトライナーに戻ってきたからには、Tak.さんのエントリに還ってくるのが私の論理(笑)。

本日の未整理な考え:Word Piece >>by Tak.:So-netブログ

文章のリズムを感じられる短文の箇条書き。
箇条書き好きなんだからあとちょっとよね。箇条書きつなげりゃーいーのよ(やけくそ)もー。
箇条書きつなげれば論理的な文章をつくりやすいっていうのもよく分かっている。にも関わらず、できないというのは、たぶん出来上がった文章の「絵的な意味での見た目のカタチ」が、自分の中でかなり重要な位置を占めているからなんだと思われる。

この感覚はロランバルトにつながる気がするのよね。「表徴の帝国」に載ってた、たぶん屏風と思われるものに筆で書かれた日本の仮名文字の写真。これは果たして文字なのか絵画なのか。私の言葉に対する感覚は「文字か絵画か」というよりも「文章かデザインか」という方が近いのだけど、似たアイデアを背後に感じる。

この「表徴の帝国」に掲載されている写真と似たような筆文字の写真が落ちてないかなーと思ってぐぐってたら、こんなのでてきた!


日本の伝統書道と欧米の現代芸術の比較 http://www.transcri.be/text/Japanesethesisfinal.pdf

漢字を理解する難しさのほどは、現代美術を理解するのと似ている: "組織的秩序の破壊、 革新を通し確立された考えの破壊、"標準" の違反、既存概念の再定義、 等... 漢字を知る者と全く関心のない者の間に起きる隔たりは、 現代美術の専門家と一般のアマチュアとの関係と比較できるのではないだろうか。

「漢字」が文字であると同時に絵画である、というのは確かによく言われることでおもしろいよねー。
デザインとしての日本語と英語。タイプフェイスの種類が一般的に欧文字の方が多いのは、漢字を持たない欧米人等が文章にデザインを求める感覚、と言えるものなのか。それとも単なる技術やコスト的な問題にすぎないのか。

で、最後にアウトライナーによるブログ書きの話に戻ると、

アウトライナーによるブログ作成といえばFargo。
Fargoのコンセプトは大好きで、私も何度もFargoでのブログ書きを試してみたけれど、あのFargoの「画面の固さ」に、どうにも背中がむずかゆくなるような感覚があって使えなかった。 Fargo見てると、MS-DOSの画面を思い出すのは私だけなのかな。固い固い、柔軟性の欠片も感じないようなあの黒いカーソル見てると、アウトライン自体を入れ替えるにもカッシャンカッシャンって機械音が聞こえてくる気がする。

改めて思うのは、私の頭ってほんとめんどくさいってことだ(笑)。
この柔軟性のなさ、私の頭は何の檻に入っちゃってるんだろうね。





*1:以前に書いた写真のような記憶の仕方はこの当時では既にできなくなっている。でも、そういう覚え方ができなくなった(あるいは、しなくなった)時点を記憶していない。また、写真のシャッターを押すような記憶の仕方から手で書く記憶の仕方に移行した、その過程もどうしてそうなったか意識できてない。

*2:心理的な負担については、いつものことながら脇に置いておく。