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There is nothing to writing. All you do is to sit down at typewriter, and bleed. - Ernest Hemingway

私的「思考のエンジン」−あえてアウトライナーから離れてみる

以前、「思考のエンジン」(奥出直人著)という本をTak.さん(@takwordpiece)さんから勧めて頂きました。

思考のエンジン

思考のエンジン

デリダの「脱構築」の概念を、一般的な文書作成手法の観点から解釈し直した本といえるでしょうか。

たった一言でそれまでの固定された観念が一変する、自分にパラダイムシフトを起こしてくれる言葉というものが存在しますが、この本に書かれていた次の一文は私にとってまさにそれでした。

「(書く行為の第一段階は)できる限り最大のカオスを作り出し、どこに向かっているのかを分からなくすることである。」

p50より引用

本書26頁「我、書く、故に我在り」の章では、デリダの使う重要な概念である「エクリチュール」(書き言葉のこと)について、タイプライターも万年筆もいらない、書くことが存在することであると説明されています。

「私はテクストを生産する、これすなわち、私が存在するということにほかならない。そしてある程度まで、私は自分が生産するテクストそのものである。」

p27より引用

ここにいうテクストとは、ジョジョの奇妙な冒険でいうスタンドのようなもの、ということでしょうか。 *1

本書では、タイプライターがあるにも関わらず、なお手書きによる文章作成にこだわる作家に共通する性質として、「自分は、自分の生産するテキストそのものである」という感覚がみられるとしています。 これこそが、デリダ特有のエクリチュールの意味だと思います。 私の中では、書いた文字によって自分自身がつくられていく、そういうイメージです。書かなければ、自分にカタチは存在しない、という感覚。書かなければ意識が曖昧模糊としていて「自分が自分である」という明確な感覚を掴むことができない。 デリダのいう「脱構築」とはこういうものなのかな、と実感しています。

本書では、このような手書きによるエクリチュールに対する概念として、タイプライター的思考というものが挙げられています。

「テキストの部分を機械の部品のように扱って今までとは違った全体を構成するタイプライター的思考は、たしかにロゴス現前の伝統的な場所(決まりきった表現形式)を乗り越え新しい表現形式を様々に実験するモダンな試みであった。

だが、この背後にある部分と全体という考えも、全体が指し示すなにかを前提としている点で再び「ロゴス現前」の過ちを犯しているといえる。」

p31より引用

「テキストの部分を機械の部品のように扱って今までとは違った全体を構成するタイプライター的思考」。これは、まさにアウトライナーのことではないでしょうか。

ここまで読んで、昔のことを思い出していました。
私は、赤ちゃんの頃、紙にひたすらペンで文字らしきものを書いていた子だったそうです。

ハイパーグラフィアというものをご存知でしょうか。

書きたがる脳 言語と創造性の科学

書きたがる脳 言語と創造性の科学

Passion For The Future: 書きたがる脳 言語と創造性の科学

Hypergraphia - Wikipedia, the free encyclopedia


ハイパーグラフィアとは、側頭葉の損傷により生じる精神疾患の一つで、特に意味のない文字を書き続けていなければいられないという症状のことをいいます。かつて、本屋でこの本を見かけたとき、自分の子供の頃の話を思い出して読んでみました。でも、記憶にある幼少期以降を振り返ってもこうした症状は特別思い出せませんでした。

ただ、「書く」という行為が自分にとって特別な意味を持っている、というのは昔から感じていました。 20歳前後の時には、書かなければ記憶はできないし、本を読むことも一度書き写してからでなければ理解することが難しい状態でした。

法律の勉強をしていたせいもあり、論理的な文章を書くように努めていたため、長らく自分の中での文章作成とは、作図をしてそこに単語をのせていく、というイメージでした。まず結論と構造ありき。 そのために論理的に書かなければならない、ということに過度に囚われてしまっていたようです。

デリダの言葉の通り「文章が論理に汚染される。」
まさにこの状態だったと思います。

ただ、論理性にこだわることが、自分の意識を確かなものにする、という思いがありました。 ほっておくとあまりにも思考が拡散して止められなくなる、そういう空恐ろしい意識にブレーキをかけるもの、それが私にとっての「論理」だったのだと思います。 正常と狂気の境界線。自分をこちらの世界に踏みとどまらせるもの、それが「論理」であり、法律を選んだ理由もそこにあるような気がします。
大学進学当時にそのように明確に意識をしていたわけではありませんが、無意識のうちに自分の体が自分の頭を守る方法を私に選ばせた、そういう感じです。

で、もう一度昔のように、ノートとペンで自由にメモをすることからはじめてみました。 最初は結論の見えていない文章、前後のつながりのない言葉を書いていく、ということに抵抗がありました。でも、冒頭の「(書く行為の第一段階は)できる限り最大のカオスを作り出し、どこに向かっているのかを分からなくすることである。」の一言で、すっと固定観念から離れることができたように思います。

今、お気に入りのノートはコクヨのLEVEL BOOKというノートです。
自由に思ったことを、字の綺麗さも気にすることなく前後関係も気にすることなくただ書き連ねて行くと、その中から自然につながりそうなテーマや言葉が浮かんでくることが分かりました。 それを三色ボールペンで囲ったり、まるをつけたりしながら、ブログを書いています。 本書にあるオープン・エンディッド・ライティングプロセス。文章を書く過程というのは、まさにこういうことなんだなーと実感。

それと同時に、法律答案も解答例をただ写経する、というところからやってみています。 まさに法律の勉強を始めたばかりの時にとっていた方法です。 その時の自分の頭の様子を観察してみると、書き写しながら、同時に既に書かれた文章を読み返して、今まさに手で書いている文章との関係を考えていることが分かりました。
そうか、こうやってやっていたっけ、
ずっと忘れていたものを少しずつ取り戻しているような感じがします。

はー つかれたし、でも、うれしい

コクヨ 測量野帳レベル白上質40枚[セ-Y1]

コクヨ 測量野帳レベル白上質40枚[セ-Y1]

これは、こんな感じに、左頁には5ミリ×1センチ程度の四角形が書いてあり、右頁は通常のノートと同じく 罫線が入っているので、自由につらつら文を書いてもいけるし、単語の関係や流れを整理しながら書いてもいけるので、とても気にいってます。

パソコンに向かうと、白くて綺麗な画面なので、そこに意味ある言葉を書かなければいけないような気がしてきてしまって、どうも自由に文章が書けなくなってしまうようです。

あえてしばらく使い続けてきたアウトライナーから離れて、手書きで文字を書く、という感覚自体を楽しみたいと思います。

Do I know where my brain is ?

*1:私は、この漫画を読んだことがないので聞きかじりでしかないのですが、スタンドというものが「自己」を前提としたものならば、ここで挙げる例としては適切でないと思います。なので、現時点では打ち消しておくことにしました(2014/2/15 2:07追記)。