もうひとつの永劫回帰-ニーチェを超えて
I know why human cry. - cited from Terminator2
http://www.youtube.com/watch?v=crE3AUTvzGw
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生来かかえてしまった固有の問題。それをどう自分の中で消化させるのか。
方法としては2つしかない。一つはそこから逃げること。もう一つはそれを受け入れること。前者の典型は新興宗教であり、後者の典型がニーチェの永劫回帰だろう。
ただし、後者は果たして人間に可能なのか。
永劫回帰を唱え、たとえ永遠の繰り返しだろうと「この生」を生きていこうとしたニーチェの末路は、発狂だった。
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「100万回生きたねこ」という絵本がある。
私の一番好きな絵本で、ストーリーはこうだ。
主人公は100万回も死んでは生き返ってきた雄の猫。生き返るたびに違う人間の飼い主に愛される。でも、この猫は人間が大嫌い。自分が死ぬたび飼い主は心から悲しんで泣くけれど、猫にはその気持ちは分からない。
ところがある日、猫は白い雌の猫に出会う。一目でその猫を気に入った主人公は、その猫の気をひくため「俺は100万回も生き返ったんだぞっ、すごいだろ」と自慢げに身の上を話す。でも、白い猫は見向きもしない。
その後も主人公はいろんなことをやった。
たくさんの人間のそばで100万回も生きてきた経験を生かして。
でもどれも埒があかない。
疲れた主人公は一言、「側にいてもいいかい」とその白い猫に聞く。
白い猫は言う。「ええ。」
2匹は仲よくその後を過ごす。子猫たちもたくさんできる。月日は流れ、その子猫たちも独立し、また2匹に戻り、そして白い猫は寿命を迎える。
主人公は悲しくて白い猫の亡骸の側で泣き続ける。そして、その翌日、主人公は白い猫の側で幸せに息をひきとることができた、という話。
この絵本もいろんな解釈を許すストーリーだ。
普通に読めば悲しい話なのかもしれないし、「生きたい」と思い始めた途端に死が訪れるところなんかは「煩悩を持つな」という仏教の教えに通じるような気もする。
そして、私の目からはこんなに幸せな話もないだろう、とそう映る。
愛する人に出会ってともに生きる、子供を立派に成長させる、愛する人が死んだら自分の寿命もやっと終えることができる。何度も何度も生きなければならない苦しい循環からはこうやって逃れられたっていう話だから。
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押井守の「スカイクロラ」もモチーフは同じ。
死ぬことができず永遠に子供のまま生きていかなければならないキルドレ。
スカイクロラに出てくるキルドレの生に救いがあるとすれば、自分がキルドレである、ということに気付いてない点。戦争ショーで死ぬたびに生まれ変わるのだけど、生まれ変わった自分は前世の自分の記憶を忘れている。
でも、そのキルドレの中にも、自分が何者であるかに気付く者もいる。
気付いた者の中でもそれを受け入れられず乗り越えられない者もいる。
その中で、主人公の二人はキルドレであることを受け入れ、その諦念の中で、何度も死んでは生き返る生を繰り返す。
何かが起こる、すなわち「終わる」ことを期待して。
その繰り返す苦しい循環の中に、それでも同じ生ではない何かが起こることを諦めない主人公。諦念の中の強さ。
これこそが「超人」なのだろう。
それは既に人間ではない、のだろうか?
I know why human cry.
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2013/06/06 11:35追記
「本当は危険なニーチェ」
http://sankei.jp.msn.com/life/news/130605/art13060507430002-n2.htm