LawDesiGn

There is nothing to writing. All you do is to sit down at typewriter, and bleed. - Ernest Hemingway

口述筆記はなぜ幼稚になるのか


IPhone音声認識で書いた文章というのは、文字を見ながら書く文章に比べて、あほになるのね。で、その原因をこんな早朝から考えている。
ここで、あほになる、というのは一言でいうと「文章全体がだらだらと長い、しかもつながってない」。
つまり、

  • 前の文と後の文が同じことの繰り返し(同義反復が多く、論理が先につながらない)。
  • かと思えば、前の文と後の文が飛躍しすぎる(論理が飛びすぎていて、間がつながらない)。

これは後から修正を加えないから、というのもあるのだけど、もっと大きな原因は、近視眼的になってるからじゃないかな、と思った。つまり、一文と一文をつなげることに必死になっていて、全体を俯瞰するイメージが頭の中から消えてしまっている。
うーむ。これを解消するには、話しながらも、全体のイメージを頭の片隅に常に置いておかなければならないようだ。


で、昨日のタローさん(@ taro_doudesyo)のツイートを見て、考えてみました。

A4びっしりに書かれた文章をわずか1分足らずで英語に要約する力。
私には英語をしゃべる能力、というのは皆無なので、英語、というところを日本語に置き換えた上で、この力を分解してみると、

(1) A4に書かれた文章を1分で話せる状態に要約する。

(2) 要約した文章を1分で日本語で話す。

かな?

まず、(1)について。
「短い時間」で「要約」できる、ことをもっと分解してみると、

  • 短時間で、その文章の抽象と具体のレベルを分けられること。
  • 短時間で、1分で話せる内容まで第1レベルを削ぎ落とすことができること。
  • 短時間で、その第1レベルにある個々のテーマを文章としてつなげられること。

そして、(2)について。
頭の中にある文章をよどみなく口から発音できること。


(2)については、人前でプレゼンすること、というまた少し違った能力の検討が必要なので、置いとくとして、
音声入力を練習する際は、その前の考える時間で、こんなイメージを頭の中に置いとくといいみたいだ。
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1分で話せる箇条書きの文の数って5個くらいかな、とか思って適当に書いてみたんだけど、5個の文ってゆっくりしゃべってやっと30秒なんだ!
とすると、1分だと10個の文を話さなきゃいけないのか。会話の1文って30字前後かな。とすると、1分で300字、twitterにすると2ツイートちょっとだ。

なるほど…。
なんかよくわからないけど、奥が深い…!

じゃー、またねー

非典型担保の整理と、口述筆記について少し。


非典型担保を整理してみました。
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個人的にとても好きな「基本民法Ⅲ」(大村敦志著)の該当部分を要約して、ちょっとだけどこからか聞いた知識を足したものです。

基本民法〈3〉債権総論・担保物権

基本民法〈3〉債権総論・担保物権


本の内容をまとめたり、何かしら考えごとをするときは、上のようなダイアグラムをよく書きます。ダイアグラムというと大げさだけど、言葉を四角形で囲んで、矢印でつなげたり、グループ化したり、色塗ってみたり、とそういう感じ。
四角形がすきなので、紙の上に自由に四角形書いて、その上に言葉をのせていくようにメモを書いてます。なので、本屋でも表紙に四角形が書いてあると思わず見ずにはいられない。

で、昨日、丸善で見つけて即買いしたのがこの本。↓

「箇条書き」を使ってまとまった量でもラクラク書ける文章術

「箇条書き」を使ってまとまった量でもラクラク書ける文章術

タイトルの示す通り、文章の書き方の本。
文章の骨組みの作り方を「ブリット」と「ボックス」という言葉を使って説明してます。ボックス…、いいね、四角形を連想させるすてきな響き。

「ブリット」とは、箇条書きのこと*1
「ボックス」とは、この箇条書きの文を収納する箱のこと。

アウトライナーで言えば、アウトラインを構成する一文一文(この一文一文を徹底的に単文の箇条書きにするところが特徴)がブリット、それをひとくくりにしたより上位のかたまりがボックス。

著者は、この文章の骨組みの作り方を「思考のビル」と表現しています。常日頃、文書のドラフトは、建築の設計図のような出来上がりをイメージして書くので、この表現もぴったりしっくりくる感じでとても気に入りました。


ま、でも、これだけならたぶん買わないで帰ったと思うのだけど、この本の第4章の⑥を見て、即買い決めました。

第4章には、ICレコーダを使って文章の草稿をつくる方法が紹介されてました。いわゆる口述筆記。この口述筆記って以前から興味があって、10年ほど前にドラゴンスピーチやアミボイスを試したこともある。でも、なかなか難しくて結局そのまま放置しちゃってました。

この本では口述筆記の達人として、経済評論家の長谷川慶太郎さんという方が紹介されています。この方はこれまでに約250冊の本を出されていますが、その全ての著作が口述筆記で行われているそうです。
なんといってもすごいのがここ。

取材に行くと、テーマと文字数を聞かれます。
たとえば、「来年の世界経済について4000字でお願いします」と言うと、一言「わかりました」とおっしゃって、たとえば、次のように話はじめます。

そして、「終わりました」と、にっこりされるのです。
長谷川さんは、数分間よどみなく話すだけです。
そして、テープレコーダーに録音された話をワープロで文字に起こすと最初にお願いした文字数の原稿ができあがるのです。
はじめてのときは驚いてしまい、何度もできあがった原稿(といってもテープ起こしをしただけですが)の文字数を数えてしまいました。
何度数えても3996文字であり、これはまさにミラクルでした!


第4章「ICレコーダーに吹き込んで草稿をつくる方法」p130-p131より

すごい!
これはほんとにすごい。文章を書くアタマのプロセスにすごく興味がある者としては、長谷川さんの頭の中にどういうイメージがあるのかとても知りたい。
ドラフトを頭の中だけで構成し、それが言葉として一直線につながって口から出てくる。そして、修正もない!
この本の著者も「長谷川さんの頭のなかには、すでに「書かれたもの」が存在しているように感じました。」と書いてます。


こういう方はほんとに一握りの天才ともいえるので、あれなのですが、少しでも論理的に話ができるようになりたいな、ということで、口述筆記のトレーニングをしてみることにしました。
実際、iPhone音声認識機能は非常に精度が高く、また、一文、二文をまとめて読み上げてもきちんと認識してくれます。さっそく少しやってみたのですが、なんというか、その、出来上がった文を見てみると、まぁ幼稚というか、ほとんどあほに近いのですね…ですね…
なんというか冗長でしまりのない、なんというか、なんというか…

がっくり

とりあえず、しばらくは続けてみようと思います。
そのうち音声認識だけで、ブログ記事が書けるようになったら、それはとてもすばらしい

*1:英語で箇条書きのことをブリット(bullet=弾丸)ということに由来するそう。箇条書きの頭につける•が弾丸のように見えるから。

目に見えるカタチは時としてその内実を表す、ということーEvernoteとアウトライナー


Evernoteアウトライナーの役割分担についてのエントリは「word piece」の中でも特に好きな記事の一つ。

アウトライナー・フリーク的Evernote論:Word Piece >>by Tak.:So-netブログ

このエントリの中でTak.さん(@takwordpiece)は、Evernoteを記憶のための道具、アウトライナーを思考のための道具とした上で、次のような疑問を呈している。

どうして同じ知的活動であるはずの〈記憶〉と〈思考〉とで道具のカタチが違うんだろう? 〈記憶〉は〈思考〉を誘発し、〈思考〉した結果は〈記憶〉されるはず。
アウトライナー・フリーク的Evernote論:Word Piece >>by Tak.:So-netブログ

考えてみた。
〈記憶〉と〈思考〉は、「分解」を分岐点に、正反対の途を辿っていくものなのかもしれない。
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「どうして同じ知的活動であるはずの〈記憶〉と〈思考〉とで道具のカタチが違うんだろう? 〈記憶〉は〈思考〉を誘発し、〈思考〉した結果は〈記憶〉されるはず。」

その答えとして思うのは、それこそがまさに人の〈記憶〉と思考の仕方だから。
つまり、大多数の人にとって〈記憶〉とは〈思考〉の結果ではない、ということじゃないだろうか。

思考にはボトムアップトップダウンの2種類が存在する。
ここで私がいう〈思考〉とはボトムアップ思考のこと。秩序のない断片を入れ替えて共通点を探し出していく動的なボトムアップ〈思考〉と、既にある体系に沿って断片をきれいに整理する静的なトップダウン思考。

ボトムアップ〈思考〉には常に出来上がりつつある体系らしきものを検討し、修正し、時には破壊し、そういう苦渋の創作のプロセスが介在している。これに対して、トップダウン思考というのは、出発点が既に決まっていて「所与のもの」を前提としている。もっと穏やかで整然としたもの。帰納と演繹。経験と理性。


そして、世の中で生きていくために必要とされるのは大抵がこのトップダウン思考だ。なぜなら、生きてくために最も必要なものは「再現性」だから。

ものごとを再現するためには、そこに至るまでの手順を自分で導き出せることが必要になる。そのためには、ものごとを分解しどういう手順で成り立っているのか、その仕組みを分析する必要がある*1
学校教育はこの再現性を獲得するためにある。高校までの「勉強」とは、このトップダウン思考を完成させる手順を学ぶことだ。既にある体系を分解し再度同じ上位概念へ構成できる、これが「理解」であって、その思考手順を何度もたどることで〈記憶〉がつくられる。こうして取得した体系の構造は、その後の〈思考〉の不可欠のベースとなる。このベースが「知識」と呼ばれるものであって、きれいに整理され位置づけられた知識は、必要なときに自在に取り出すことができ、そして元の位置へ戻すことができる。これが「検索」。

個々の知識を整理し、検索すること。
それは、まさにEvernoteを完成させる作業。

Evernoteのアウトライン機能が断片同士を動かすことができない仕様である、というのはまさに「そうであるべき」だからなのかもしれない。
だって、Evernoteのコンセプトは「すべてを記憶する」なのだから。


アウトライナーにいう〈思考〉は、この体系化(あるいは体系化に基づく〈記憶〉)の更に先にあるもの。
既にある体系を壊すもの。
Evernoteよりももっとずっと暴力的なもの。
もっと非日常の世界。

Evernoteの普及の度合いと比較して、アウトライナーが未だマイノリティの地位に甘んじていること。
これは、大多数の人にとって〈思考〉は〈記憶〉ほど必要なものではない、という事実を表すものなのかもしれない。そして、大多数の人は思うよりもっと平和的なのかもしれない。


目に見えるカタチ。
カタチは時にその内実全てを表す。






化粧だいじ?。うん。はい。だいじ。
クリスマス近いしね。

*1:その手順を導きだすことが苦手なことは、GTDにおけるタスクの洗い出しが苦手なことと関係しているように思う。

「社会契約論−ホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズ」(重田園江著)

社会契約論: ホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズ (ちくま新書 1039)

社会契約論: ホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズ (ちくま新書 1039)


人と人がうまくやっていくってどうしたらいいんだろう?
人間って利己的だから、そのまま放置してたんじゃ社会秩序もへったくれもあったものじゃない。でもね、利己的な心は抑えて利他的になるよう努力しよう、そんなお題目はもう聞き飽きた。だって、人間って利己的にできてるんだもの。それでも互いに殺し合わずそれなりに秩序を形成してやってくためにはどうしたらいいのか。
その一つのヒントとなるのが、この本。

人と人が殺し合う戦争状態からいつ、どうやって人は自ら武器を置く決断ができたのか。戦争状態の中、自分が武器を置けばいつ他人に殺されるやも分からない。そんな状況でもなお戦争状態を解消するために、人はどうすれば相手を信用し武装解除することができるのか。

国家形成の過程というのは、まさにこの囚人のジレンマ克服の過程といえる。
社会契約論は、自然状態から国家形成に至るプロセスを説明する一つの方法。国家や秩序というと大上段ではあるけれど、国家形成のプロセスを学ぶことはそのまま人間関係を学ぶことでもあるよね。


社会契約論のタイトルにロックがなくヒュームが書かれているのに興味を引かれて購入@丸善
ヒュームといえば、ロック、ヒューム、バークリの三大イギリス経験論者の一人。
バークリといえば…
ソフィーの世界を読んだことある人なら、思い出すだろう。ソフィーが自己の存在に隠された真実を知る重要な場面で出てくる哲学者だから。

ソフィーの世界―哲学者からの不思議な手紙

ソフィーの世界―哲学者からの不思議な手紙

ロックが抜け落ちてるところが他の社会契約論の本と違う面白い特徴だけど、著者はその理由をこう説明する。

この本でロックを取り上げることができない理由を、簡単に述べておく。
ジョン・ロック(John Locke, 1632-1704)の社会契約論では、「信託 trust」という考え方が鍵になる。

ロックの思想に「信託を受ける政府」という考えがある以上、もう一方に、「信託を与える者」を想定しないわけにはいかない。そして、この信託を与える者は、…個人が生まれ、死に、構成メンバー自体が変わっても、具体的な場所で歴史的な実在として生きつづける集合体としての「人民」に当たる…(この集合体が)ロックの契約論にとって不可欠の構成要素なのだ。

ホッブズとルソーが一回限りの契約を強調するのは、彼らが契約以前の人間社会にあるべき集合性を認めることができないからだ。ロックの社会契約にはこの特徴はない。
この本での私の立場は、ホッブズやルソーに見られる一回限りの契約こそ社会契約論の革新性と近代性の源泉であるというものなので、その中にロックを含めて論じることができなかった。

p280 注(1)より

国家という秩序を成立させる以前の自然状態においては、人と人とが集合体をつくることなんて観念できない、とする著者の考え。
これはすんなり腑に落ちる。そもそも、集合体ができる時点でそこに一定の秩序が既に存在するはず。

ん?これは日本の歴史とも関係しそうね。
農耕民族であったために自然発生的に人が共同体を形成してきた日本と、キリスト教と王政によって自由を制限されてきた諸外国と。
網野善彦のこれ↓読んだけど、これだけじゃいまいち分からなかったよねー。年末にもっかいぺらぺらしてみたい。

日本とは何か  日本の歴史〈00〉

日本とは何か 日本の歴史〈00〉

あ、で、ロックね。
その後、本屋でみつけた「なめらかな社会とその敵」↓をぱらぱら見て、たぶん、ロックが「集合性」を強調するのは、国家権力の正当性と正統性の根拠を(個人の意思ではない)「人民」と人権から基礎づけることにあるんだろうな…と思った。もうちょっと考えたい。次はこの本読みたい。

なめらかな社会とその敵

なめらかな社会とその敵


中途半端感満載だけど、おなかすいてきた。

またね。

民訴百選A6 相続財産管理人の地位−本当に意味のない議論?


民訴百選A6の判例きらい。
実質意味がある議論じゃないとか言われながら、けど、いつも基本的な理解が足りてないって思わせられる。民訴法上も民法上も。


まず、本件の民訴法上の問題は、相続財産管理人が自己を原告としてした訴えが適法なのか、不適法なのかということ。相続財産管理人はその相続財産に係る訴訟において当事者適格を有するのか、代理人にすぎないのか。確かに、どちらであろうと実際訴訟に出てくるのは相続財産管理人なのだから、当事者適格者だろうが代理人だろうが、それは法形式の問題にすぎないとも思える。

でもね、この問題を裏返すと、じゃぁ相続財産管理人以外の他の相続人の当事者適格はどうなるのかってことだと思わない?実のところ、この議論の実質的な意味ってここにあるんじゃないか、と思ったりする。

判決は、民法第936条2項の文言を根拠に、相続財産管理人が原告となって提起した訴えを却下している。理由は実体法上代理人とされる相続財産管理人を訴訟法上も代理人とすべきだからだろう。とすると、他の共同相続人の当事者適格が相続財産管理人に移転しているとは考えてないことになるね。そうすると、他の共同相続人に訴訟参加する途が残されていることになる。

ちなみに、相続財産管理人についての民法の規定はこれ。

民法第936条
1項
相続人が数人ある場合には、家庭裁判所は、相続人の中から、相続財産の管理人を選任しなければならない。
2項
全校の相続財産の管理人は、相続人のためにこれに代わって、相続財産の管理及び債務の弁済に必要な一切の行為をする。

2項の「相続人のために」「これに代わって」。
相続財産管理人を実体法上も訴訟法上も代理人とする根拠として、判例はこの文言を挙げている*1。確かに、2項の文言だけ見れば代理人ぽい。

だけど、1項には「相続人の中から」共同相続管理人が選ばれるってあるじゃん。
これを重視すれば、この条文は共同相続人から相続財産管理人への管理処分権の移転を規定したものともいえそうだよね。とすると、民法936条は、相続財産管理人の地位が法定訴訟担当であることを定めているとも読める。実際、民訴法124条1項1号には、相続財産管理人が「訴訟承継人」であることがはっきり規定されてるし。


こうやって、袋小路に迷い込んだときは原理原則に立ち戻って考えましょう。
民事訴訟法というのは、あくまで実体法上の権利の実現手段にすぎないのであって、実体法上の僕(しもべってこうやって書くんだ)なのです。とすると、そもそも相続財産というものがどういう性質のものなのか、そこから考えてみるべきよ、と。

相続財産の法的性質については、共有やら合有やらあったけれども、とりあえずそんな法的性質論は置いといて素直に考えてみる。すると、相続人同士なんて利害関係ありまくりなわけです。もう、自分の分け前を多くしよう多くしよう、血みどろのどろどろです。家族もへったくれもあったもんじゃありません。…おっとっと、もちろんそうでない家族もいっぱいいます。

要するに、なかよしこよしでこれからもみんなで持っていようね、ではない関係が多い。相続財産の共有(合有?)状態は暫定的なもので、分割されて単独所有に帰することが当然の前提となっている。そうするとね、相続財産管理人以外の相続人にも係属中の訴訟に関与させる必要があるんじゃないな、と思うわけです。んなら、相続財産管理人は共同相続人の代理人であって、法定訴訟担当とみるべきではない。判決が代理人としたほんとのとこってここにあるんじゃなのかな、と思ったりするのだけど、そうすると百選A6はほんとに意味のない論点なの?ん?


んで、脇に置かれた相続財産の法的性質なんだけども。これは民法上の問題ね。

当事者適格は原則として実体法上の利益帰属主体に認められるのだから、実体法上、相続財産の法的性質をどう考えるのかによっても影響を受けることになるはず。相続財産の帰属の仕方、これは共有なのか合有なのかね。
訴訟追行権に限っていえば、これを合有とすると、相続財産は各共同相続人に合有的に帰属することになって、固有必要的共同訴訟となるべきことになる?そうすると、この訴訟に疑義ある他の共同相続人は訴訟参加(52条)できることになるよね。そうすると、実体法上相続財産を合有と考える説からは、訴訟上も共同相続人は当事者適格者であって相続財産管理人は代理人とすべきとした方が素直かな?他方、これを共有と解するとどうなるだろう?本件は、少なくとも共有持分権の主張ではないだろうから(共同相続人全員vs相手方だよね)、共有としても結論は変わらないかなー。もやもや。
相続財産の法的性質って何なのか、遺産分割って何なのか、それから共有と合有もほんとよくわからんくなってくる。

ということで、ここらへんでうちどめ。


あ、あと気になるのが、原告が裁判所の釈明義務違反を主張してることなんだよねー。
釈明義務?これって訴訟要件具備の有無には妥当しないよね?…て思ったけど、当事者適格については、その具備の調査の開始は職権調査事項で、資料収集については弁論主義だったか!

でも、法人の代表者の話って当事者適格の有無の問題?
んー、ここもよくわからない。法人の代表者って訴訟上代理人となるんだろうけど(37条)、これは「法定」代理??37条が代表者に法定代理人の規定を準用するのは、本人である法人自体は訴訟追行できないからだもんね?そうすると、本人の訴訟能力の補充ということで法定代理人。あれ?でも、代表権の発生原因は、構成員が代表者として選ぶからなんだから、支配人とかと同じく法令上の訴訟代理人にならないかな。そうすると「任意」代理人だよね…。
実在説と擬制説がからんできますか?もしかして。

ぐあー。
HPもはや0。
教会にお金払って、生き返らせてもらわないと…
ところで、iphone版ドラクエ、100万人まで無料なんだね。
こんな興味深い記事があったよ。

ドラクエ1のiPhoneアプリが無料でもらえる理由が頭良すぎる件 - Rick08の日記

宣伝広告の力、すごいね。
それにかけた投資はやっぱり回収しないとね。著名ブランド保護しないとね。もんもん。
あ、今考えてる他のエントリの話だよ。



2013/11/29 16:09 追記。

当事者適格についての資料収集が弁論主義とされる理由は、当事者適格決定の基準が実体法上の利益帰属主体か否かであるために訴訟物の判断と直結するから。とすると、法人の代表者の代表権限に関しては、必ずしも訴訟物と関わるわけではない(構成員による選任手続の有効性如何によるから)ので弁論主義が妥当するとはいえなくなる。つまり、法人の代表者の代表権限の有無は、一般的な訴訟要件と同じく職権探知主義が妥当するでいいのかな。
…とすると、原告はなんで釈明義務違反を主張してるん??

*1:最(一小)判昭和47年11月9日

断片であること


自分のモノの考え方をふと振り返ってみて、
必死でいろんなものの間に共通項を探しているんだなぁ、と、
思わず苦笑してしまう。

違うものと違うもの。
その上位概念を探して、どこかにつながりを見つけようとする。
つながりがなければ、創る。
それがたとえ無理矢理であっても。
必死で。

文と文をつなぐ「論理」というものから、立ち上る
言葉にならない美しさと苦しさと。

論理哲学論考を見て、思わず涙がでたのは
きっとそういうことなんだろう。

全ては断片で、
どこまでいっても、どこまでいっても、途方もなくそれは断片のままなのであって、
だからこそ、自由に移動させることができるのだけど。

それが「本質」なのだと思う、
自分というものの。
そして、人間というものの。


芦田宏直先生(@jai_an)の「努力する人間になってはいけない」を読んでる。

「一人の人間を愛することが〈できる〉という根拠も、その人間から自由に離れうる(その究極の形態として殺しうる)ということなしにはあり得ないことです。

どんなに愛し合う間柄であっても、いつでも、その相手から逃げることができるという原理が根底にない限り、「離れられないんだよね」なんて絶対に言えません。
場合によっては一突きで殺しうるからこそ、人間は命をかけて添い遂げることができるのです。つまり人間は自由に殺しうるからこそ、自由に(=深く)愛しうるわけです。」


なぜ人を殺してはいけないのか−一つの〈責任〉論 p175-176より

それにしてもこの本の装丁は綺麗だな。
特に背表紙。
文字のフォント、
文字のサイズ、
文の位置配列、

哲学関連の本には、装丁が美しいと感じるものが多い。
今まで見た中で一番そう感じたのは、長谷川宏訳の「精神現象学」。
これ、芦田先生が人生で読むべき本としてつぶやいておられたので、ぽちったのだけど、届いてみてびっくり。
綺麗すぎる。
本棚に置いてあるだけで、自分の価値が1000倍くらいになる気がするもん。

精神現象学

精神現象学


あさつゆ | アパートメント
とてもとても好きな作品。

こうありたい、とひたすらに願う。


つながりがないのならば、創る。
それがたとえ無理矢理であっても。
必死で。

ここではないどこか、をここへつなぎとめるために。






…あ、肝心の芦田先生のご著書!

上のすべての思いを否定するようなタイトルです
もー
さて、続きをよむよ!

2013/11/22(金)

倉下忠憲さん(@rashita2)さんのブログ「R-style」にインスパイアされて。

靴下とその内側に潜む悲劇



来世は靴下に生まれるのも悪くない。そう思う。

生まれたときから、一緒に生きてくれる相方が、当然のようにそこに存在して、
その相方がいなければ、自分の存在価値もない

2つでなければ、生きられない
1つがほころべば、自分もまた役目を終える



今日は、いい夫婦の日。

はい、おがたくん、よくできました
100点まんてん
ないすたいみんぐ







続・続 補助参加の利益−最終章の予感

長々、悶々と私の中にくすぶり続けた補助参加の利益ですが、

補助参加の利益−訴訟の結果について「利害関係」、の範囲 - LawDesiGn
続・補助参加の利益−百選A39事件のあてはめを考える - LawDesiGn


ありました。
疑問に答えてくれる判例評釈。
その名も、判例タイムズ338号66頁。
光り輝いております。
ぴかぴかです。
おー

…お?


…「あなたの疑問は皆が思っていますよ、回答はしばしお待ちを。」



ヾ(⌒(_•́ω•)_


…試験には容赦なく出すくせに、…くせに…
でも、とりあえずわからないっていうことがわかっただけで、もうけもんだもん。

今日のエントリのダイアグラム。
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とにかく何が原則的事例で、何が原則の拡大事例なのかを把握しときたい。原則の拡大事例については、あてはめ丁寧にすべきだもんね。それを試験会場でもとっさに判断できるようにしたい。そのとっさの判断が現場でできなさそうな重たい予感がするNo.1が、補助参加の利益。

補助参加の利益が問題になる事例っていうのは、①原則事例として、要件が効果に参加する場合と、②拡大事例として、効果が要件に参加する場合とに分けて考えられたりしないだろうか、もやもや。つまり、①主債務者が保証人の補助参加する場合と、②保証人が主債務者に補助参加する場合。この2つの事案は、判決の結果が参加者の実体法上の地位に与える影響、が明らかに違うように思うのね。その理由としては、要件にとって効果の存在は必要十分条件だけど、効果にとって要件の存在は必要条件にすぎないから。要件とは主債務の存在。効果とは保証債務の存在。


でも、この、要件が参加するのか、効果が参加するのかという区別は、③真の所有者Xから追奪責任(引渡請求)を受けた買主Yに売主Aが補助参加をする場合を考えると適切じゃなかった。売主Aの所有権の不存在というのは、YのAに対する損害賠償請求権の要件の一つなので、このケースも効果が要件に参加する場合(前訴訴訟物たる権利の存在により自己の実体法上の存在も必然的に定まる関係ではない)。でも、参加人Aと被参加人Yとの間に参加的効力が生じるので原則事例から外れているとはいえないだろう。
あえなく要件・効果による選別は討ち死に。ぐふ。


で、今のところやっぱり参加的効力が生じるのが原則事例で、参加的効力が生じないのが拡大事例ということになるのかなー。そうするととりあえず②は区別できるね。個人的には①と③もいっしょくたにしていいものなのか疑問があるけど、言葉にできない、もやもや。

結局、参加的効力が及ばないにも関わらず補助参加したいぜって言ってくる事例はちゃんと考えよう、ってつまんない結論になっちゃったなー。
むー。


このままじゃ、面白くないので冒頭の判例評釈から引用。
被参加人とは参加的効力及ばない関係だけど、被参加人の相手方との間では喧嘩になるおそれがあるから補助参加させてよって事例が5個。

参加申立人が被参加人の相手方との間で、紛争解決ないし権利保護の必要に迫られる場合のめぼしいものを拾って見ると、次の諸例がある。

      • -

①大決昭和8.9.9
村の出納員Xが、村住民の一人であるYに対し、住民大会で住民が寄付金を負担する旨の決議がなされたとして、寄付金の負担部分を請求し訴訟提起。
←これに、村の住民Zら22名が、Yへの補助参加を申出。
 ←もしYが敗訴すれば、同一理由をもって、XからZらに右寄付金を徴収されるおそれがあるから。
⇒補助参加は認められる

②大決昭和7.2.12
XがYに対し入会権妨害排除請求訴訟を提起*1
←これに、隣接山村の所有者であるZが、Yへの補助参加を申出。
 ←もしYが敗訴すれば、同一の事実関係にあるZ所有の山林についても、X単独の採取権を主張してZに訴えを提起してくるおそれがあるから。
⇒補助参加の申出は却下

③東京高決昭和38.12.10
合資会社の社員Xが、さしあたり社員Yのみに対し、自分を除く他の社員には利益配当請求権その他社員としての諸権利が存在しないことの確認を求め訴訟を提起。
←これに、Yと同様の地位にある他の社員Zが、Yへの補助参加を申出。
⇒補助参加の申出は却下

④大阪高決昭和41.2.2
Xが、芦屋税務署長Y1及び大阪国税局長Y2に対し、課税処分取消訴訟を提起。
←これに、Zが、Yらへの補助参加を申出。
 ←・Xの課税処分の根拠は、XがZから株式8,300株の贈与引渡を受けた事実
  ・しかし、Xは未だ引渡を受けていないと主張。
  ・現に、XはZに対し、別訴で株式引渡を求めて訴訟提起しており係属中。
  ・そこで、Zは、課税処分取消訴訟における株式引渡についての判断如何が、XZ間の株式引渡請求訴訟に重大な影響を持つと考えた。
⇒補助参加の申出は却下

⑤東京高決昭和49.4.17
Xが、キノホルム製造販売業者Yに対して、当該製造販売行為が違法であることを根拠に損害賠償請求訴訟を提起。
←これに、同じくXからキノホルム投与行為の違法性を根拠に、別訴にて損害賠償請求訴訟を受けていたZが、Yへの補助参加を申出。
⇒補助参加の申出は却下


ところで、上の⑤の事例って、主観的併合要件(38条後段)は満たすんじゃないのかな…。権利同種かつ原因同種じゃない?あれー…、仮に主観的併合要件満たせば、Xは通常共同訴訟の形でYとZを共同被告として訴え提起できるわけだよね。でも、補助参加はできない、と。
既に他方の訴訟が係属中の場合に後から加わるのと、訴え当初から関与しているのと、何が違うのかなー。

38条のあてはめも、さっぱりできないよ。
主観的併合要件っていうのは、積極的にこの場合に通常共同訴訟を認めますっていうより、この場合は除外したいんですよ、みたいな想定されている事案があるのじゃないかと推測してるんだけど、やっぱりよくわからない。

*1:…入会権…

窮鼠猫を噛んじゃうぞ的な、−アメリカの情報独占に対する途上国の戦略

TRIPS協定?
ずいぶんマイナーねー
でも案外おもしろいよ?

TRIPSなんて短答試験でも捨て問にしようと思ってたのだけど、ちょっと講義聞いてみたらなんやら面白い。先進国と途上国のあからさまな対立構造がみえて、世の中の縮図的なね、そんな感じがしてちょっと勉強したいなーと思った、そう思った、……えぇ、思いましたねぇ。あれから早幾年…。


TRIPS協定がいかにアレかは、この記事が参考になります。

TRIPS協定を作ったのは誰だ?

このへんの経緯を書いた新書なんかあったらすごく読みたいんだけど、Amazonでもヒットしません。

でも、こんないい論文見つけた!

TRIPS協定における途上国問題−医療品アクセスの問題に着目して−

これ、すげー!
先進国の医薬品特許に対して、医薬品のアクセスを容易にするため、途上国が当該特許権に対し強制実施権を発動することが認められるか、アメリカの独占権に穴を開けられるのかが、TRIPS協定の文言に照らして具体的に検討されています。えーと、TRIPS31条あたり。パリ条約5条(A)(2)とかもでてきます。おー。
ちなみに、この論文書くきっかけになったという「誰のためのWTOか?」はこれみたい。ラルフ・ネーダー聞いたことあるよ。

誰のためのWTOか?

誰のためのWTOか?

  • 作者: ロリー・M.ワラチ,ミッシェルスフォーザ,パブリックシティズン,ラルフネーダー,Lori Wallach,Ralph Nadar,Michelle Sforza,海外市民活動情報センター
  • 出版社/メーカー: 緑風出版
  • 発売日: 2001/11
  • メディア: 単行本
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途上国とアメリカのちゃんちゃんばらばらは、2010年のこんなニュースにも表れてます。

ブラジル、米への報復案を公表 綿花補助金に対抗

もう4年近く前の出来事で時流からは外れているのだけど、途上国にとって先進国の知的財産権というのは実はかなり強いカードになるんだな、と。米国の押しつけ感満載のTRIPSではあるけれども、うまく使うとこんな報復手段になるんだね。

ブラジルとアメリカの間の綿花栽培問題は、このニュースよりもずっと前から両者の間でくすぶっている問題のようです。このニュースについて書いた面白いブログ記事があったのですが、今はブライベートモードに設定してあるためにご紹介ができません。残念。代わりにこういうのありました。

WTO綿花裁定へのアメリカの対応と次期農業法

長いけど、14頁上5行に経緯が(過去のだけど)書いてあります。まとめるとこんな感じ。

  • アメリカもブラジルも国内で綿花栽培が盛んで各国に輸出している。
  • 綿花を育てる環境としては、アメリカよりブラジルが優れている。そのため綿花栽培に係るコストはブラジルの方がアメリカよりも安い。
  • しかし、アメリカは国内の綿花産業を保護しまくっていて、これに高額の補助金を与えている。
  • そのため、アメリカの綿花の市場価格はブラジルよりずっと安価に抑えることができていて、これによってブラジルの綿花は国際競争力を失ってしまっている。
  • これにブラジルが怒った!

もう何年も前からブラジルはWTOにこの件を提訴していて、「このたび初の通商対抗策として米国の知的財産権効力停止措置がブラジル国内で認められるのか?」っていうのが、このニュースでした。この措置の法的根拠としてはUrgay Round AgreementのDispute Settlement Understanding 22条3項にあるようです。よくわかりません。探し当てるので力つきました。WTO加盟国はこのDSUを守る義務があるらしい。


2013/11/21追記

この知的財産権の停止措置の問題点をネットをさまよって調べてみました。
いろいろさまざまあるようですが、法的な問題点としては、WTOという公的機関が私人の知的財産権侵害を公に認めてしまう、という点がクリティカルなようです。政府同士の争いのために、アメリカ国民が流れ弾をうける…みたいなそんな感じ。
そりゃ、ひどいなー
国同士の戦いなんて、過去も今も、そしてたぶん未来も同じようなもんです。

続・補助参加の利益−百選A39事件のあてはめを考える

引き続き、悩んでおります。悩みの多い年頃。
こないだのエントリ、補助参加の利益−訴訟の結果「利害関係」の範囲について。
その範囲をどうやってはっきりさせてよいものやら。


まず、補助参加の利益の範囲を、参加的効力の範囲から枠づけることってできそうだよね。

参加的効力の趣旨って敗訴責任の分担。だから、敗訴責任を分担する関係にない者に補助参加の利益を認める必要はない気がするのね。
でも、敗訴責任の分担って何よ?

敗訴責任っていうからには、訴訟で負けた結果何らかの債務を負担することになる関係だろう、と。分担っていうからには、ともに訴訟追行した者同士だろう、と。

そうするとね、主債務者への履行請求訴訟に保証人の参加を認めるのって変じゃね?って思えてくる。主債務者負けても、その後、保証人が主債務者に対して何らかの債務を負担するわけじゃないよね。とすると、主債務者と保証人の間の後訴というのは考えられないので、たとえ保証人の参加を認めたところで参加的効力は問題にならないことになる。なのに、保証人に補助参加の利益を認める見解が多い気がするのはなぜ?気のせい?

保証人が主債務者の訴訟に参加するメリットって何だろう、保証人が今後備えなきゃいけないと思ってる訴訟は何だろうっていうと、債権者からの保証債務の履行請求訴訟だよね。主債務者が勝ってくれれば、後の債権者からの保証債務の履行請求訴訟において、保証人は主債務の存在を否認できる。

つまり、保証人の補助参加は「敗訴責任の分担」とは全く無関係だよ?

補助参加の利益よ、どこへゆく?



同じ疑問は、民訴百選アペンディクス39事件にもあるのでした。

事案はこう。YZ間で自動車事故があり通行人Xがこれに巻き込まれてケガをした。そこで、XはYZを共同被告として損害賠償請求訴訟を提起した。一審判決は、Zの過失のみ認めてYの過失を認めず、XのZに対する請求のみ認容、Yに対する請求は棄却。Zは自己に対する請求認容判決に対しては控訴せずXのZに対する請求認容判決は確定。しかし、Zは求償権確保のためXに補助参加し、一審判決に控訴しなかったXに代わり、XのYに対する損害賠償請求の認容判決を求めて控訴した。
さて、この控訴は有効なの?Zに補助参加の利益は認められるのかっていう問題。

ぼんやりと考えるとだな、XのYに対する損害賠償請求権が認められないという判決がでると、ZはYに求償できずに1人でお金払わなきゃならなくなって、それはいかにも不利益そうだという感じはする。でも、XのZに対する損害賠償請求権の存在については既にこれを認めた一審判決が確定している*1。とすると、やっぱりZとXの間で後訴というのは考えられないので、参加的効力は問題にならないじゃないかー!

で、更なる問題として、42条の文言にどうやってあてはめるのか、と。

XのYに対する損害賠償請求権の不存在=YのXに対する損害賠償債務の不存在という訴訟物に対する判断(「訴訟の結果」)→この訴訟の結果は、ZのYに対する求償権の不存在という、参加人Zにとって不利益な判断の論理的前提になっている(「利害関係」)。
これってあてはめになってるのか、なってないのかわからない。これで別にいい気もするけど、求償権の不存在といえるためには、求償権の発生原因事実がないって言わないと、あてはめにならない気持ちもする。
そうね、なんとか権だのなんとか債務だのっていうのは法的評価だから、その存在・不存在を判断するには事実を検討しないとだめだよね。「〜権」自体が、他人の権利の存否へ影響するのは、判決効が拡張される場合だけ。たぶん。

これについては、本判決の判例評釈にこんな解説がある。要約するとこんな感じ。

訴訟物たるX→Yの損害賠償請求権の存否の判断は、Z→Y間の求償訴訟へ具体的にどのような影響を与えるか。
①X敗訴の場合であっても、ZのYに対する求償権の不存在が確定されたことにはならない。なぜなら、求償権の有無がこの訴訟の訴訟物ではないから。
②X勝訴の場合であっても、ZのYに対する求償権の存在が確定されたことにはならない。なぜなら、求償権の有無がこの訴訟の訴訟物ではないから。


ただ、本判決を後訴の証拠として提出することによって、本判決で認定された事実判決理由中の判断)、特にYの損害賠償債務の存否に関して、後訴のZY間の求償訴訟に事実上の影響を与えることは十分考えられる。


確かに、被参加人X勝訴の判決がなされれば、補助参加人ZのYに対する求償権の行使は事実上容易になることは予想できる。①本訴訟の損害賠償請求権を発生させた事実と、②求償権行使のために法定に提出される事実とは共通しているので、一方で否定されたことが、他方で肯定されるということはかなり難しい。


ジュリスト642号126頁参照

そうなのよ。まさにこの赤字のとこ。この事実が具体的になんなのか示してほしいのに、あなたはつれなすぎて何にも説明してくれないので、しょーがないから私が考えるしかないじゃない(怒!
判例評釈でも指摘してるけど「特にYの損害賠償債務の存否に関して」って、要はYの過失に該当する具体的事実のことよね。これが①と②で共通してる、と。

でもこれ、ちゃんと説明しようとするとできない。
まず、②ZのYに対する求償権発生の主要事実ってなによ?共同不法行為の場合の加害者間の求償権って明文の規定ないよねー…。とすると、不当利得でいいのか?
不当利得(民法703条)の要件は、i)利得 ii)損失 iii)因果関係 iv)法律上の原因がないこと。YのXに対する損害賠償債務が不存在ならば、ZのXに対する賠償額全額の支払もYの債務の支払とはいえず、Yの利得があるとはいえない。そこで、XのYに対する損害賠償請求権の発生障害事実又は消滅事実、あ、違うね、共同不法行為だから発生原因事実?、ごにょごにょ、を検討すると、ごにょごにょ、だから、Yの過失に該当する具体的事実が共通しているんですね キリッ)。

で、ここまできて、はたと思うことはですね、
一生懸命、前訴が後訴に事実上影響する共通の事実を探しているわけですけれども、これって「訴訟の結果」なんですか?
訴訟の結果って訴訟物に対する存否じゃなかったんでしたっけ?

もー、いやー


はー、わたしつかれました。
最後に、今回のエントリのまとめ。

Xがタクシー乗車中、タクシーがバスと衝突しXはケガをした。そこで、Xはタクシー運転手Yに対して損害賠償請求訴訟を提起した。さて、バスの運転手ZはYに手を貸すべきか、それともXに手を貸すべきか。自分の利益を一番守れるのは、どちらの方法でしょう?

俺ら、過失ある同士仲間だぜ。
いやいや、やめてくれよ。俺には過失ないし。
はー

*1:一審判決が確定していない場合は、ZX間の後訴って考えられる?

Untamed Lion

「大人になったぼくがもうひとつ知っていることがある。
もしぼくらに人の3倍努力しなくてもできる素敵なことがあるとしたら、
その何かは、ライオンたちとつながっているということだ。」


粘土ライオンの墓場
Tak.さん(@takwordpiece)のブログ「word piece」より
http://takpluspluslog.blog.so-net.ne.jp/2009-01-12-1

スタバで涙がとまらなかったじゃないか
どうしてくれるん



昔よく聞いた好きな歌の一つにmichelle tumesの「Untame Lion」がある。
私の中にあるイメージもライオンだ。



He is calling me.

「おなかすいたら、食べてもいい?」











補助参加の利益−訴訟の結果について「利害関係」、の範囲

再び民訴42条のハナシ。

民事訴訟法42条
訴訟の結果について利害関係を有する第三者は、当事者の一方を補助するため、その訴訟に参加することができる。


「訴訟の結果について利害関係を有する第三者」とは、係属中の訴訟における訴訟物に対する判断によって、自己の法的地位が論理的に影響をうける場合。

論理的に影響を受けるって、ほんとぼかしまくりの規範だ。論理的に影響を受けるって、それが「法的に」なのか「事実上」なのかをあえてぼかしているとしか思えない。こんなんで何が判断できるん?主債務と保証債務について、ちょっとあてはめ考えてみるよ。れっつらごー。


保証債務の履行請求訴訟が係属している場合の主債務者
債権者Xの保証人Yに対する保証債務履行請求訴訟が係属している場合、この訴訟に主債務者Aが参加することができるか。

本件訴訟物は、XのYに対する保証債務履行請求権。これに対する請求認容判決が確定すると、XのYに対する保証債務の存在が既判力により確定される。保証債務は実体法上附従性を有するため、保証債務が存在するならば実体法上主債務も存在することになる。よって、その認容判決により主債務者の地位が実体法的に影響を受ける*1といえる*2


主債務の履行請求訴訟が係属している場合の保証人
債権者Xの主債務者Yに対する主債務履行請求訴訟が係属している場合、この訴訟に保証人Aが参加することができるか。

本件訴訟物は、XのYに対する主債務履行請求権。これに対する請求認容判決が確定すると、主債務の存在が既判力により確定される。もっとも、主債務が存在したとしても実体法上保証債務も存在することにはならない。よって、その認容判決により保証人の地位が実体法的に影響を受けるとはいえない*3
そ、法的にはね。
でも、主債務の存在が実体法上保証債務発生の要件の一つであることは確かなわけで、保証債務の履行請求訴訟において主債務の存在は保証債務の存在を判定する際の論理的前提にはなる。よって、その認容判決により保証人の地位が事実上影響を受けるとはいえる*4


「利害関係」の要件をどこまで広く解釈するかは、その効果により不利益を受ける既存当事者と補助参加人が受ける利益との衡量により決まる。
…って言ったって補助参加の場合と通常の二当事者訴訟の場合とで、どの程度手続が複雑になるのかわからんので既存当事者のデメリットもまた藪の中。実際、補助参加訴訟ってどの程度件数があるんだろうなー。


ところで、
「法的に影響を受ける」と「事実上影響を受ける」の関係って
「法的に影響を受ける」と「法的に影響を受けるおそれ」の関係って同じだよね??

*1:判決理由中の判断である以上、訴訟法的には何ら影響は受けない。

*2:効果は要件の必要十分条件。効果が存在するなら要件は必ず存在する。この場合、要件ちゃんの参加は常に認められる。

*3:判決理由中の判断である以上、訴訟法的には(以下略

*4:要件は効果の必要条件。要件が存在するとしても効果が必ず存在するとは限らない。この場合、効果ちゃんの参加は認めてよいの?

補助参加の利益は「訴訟物」の地位まで登れるか?

民訴で一番悩ましいタームを一つ挙げろって言われたら、迷わず「補助参加の利益」ってさけぶ。

民事訴訟法42条
訴訟の結果について利害関係を有する第三者は、当事者の一方を補助するため、その訴訟に参加することができる。

補助参加の利益とは、この「訴訟の結果」についての「利害関係」のこと。
補助参加って民訴の後ろーの方に出てくるんだけど、なにげに当事者適格のとこでもでてくるよね。任意的訴訟担当のとこ。明文なき任意的訴訟担当の要件のとこ。


明文なき任意的訴訟担当が認められるための要件って、①必要性と②弁護士代理の原則(54条)に反しないことだけど、②の弁護士代理の原則に反しないことって、言い換えたら補助参加の利益が認められる場合なんだよね(担当者のための訴訟担当のとき)。

例えば、買主Yが転売先の相手Xから追奪担保責任(民法561条)を追及する訴えを提起されているとき、売主Aはこの訴訟に補助参加できる。XのYに対する損害賠償請求権の存在が既判力により確定されると、売主Aは買主Yから、やはり民法561条に基づいて損害賠償を請求されるおそれがあるから。これを条文の要件にあてはめて書くと、訴訟物たるXのYに対する損害賠償請求権*1の存在という判断(「訴訟の結果」)は、Aの目的物に対する所有権の不存在が認められたことを前提とする。とすると、売主Aは、Aの所有権の不存在を要件の一つとする追奪担保責任を、買主Yに対して負担するおそれがある。よって、当該訴訟物に対する判断は、売主Aの法的地位に事実上影響を与えるといえる(「利害関係」)*2


じゃー、買主YがXから訴訟提起された時点において、Yは訴訟追行権を売主Aに授与し、代わりに被告となってもらうことはできる?
売主Aにとっては、この訴訟に負けたらYに対してお金払わなきゃいけなくなるかもしれないから、そら一生懸命訴訟がんばるよね*3。Aは弁護士じゃないけど、こういう利害状況にあるなら、プロの弁護士同様に他人間の訴訟でも一生懸命になる。だから②弁護士代理の原則に反しない。

こうしてみると、②の弁護士代理の原則に反しないことっていう要件は許容性にみえて、実は必要性の要件だよね。他人の訴訟に関与させる必要性。とすると、②があれば①も満たすことになる。そうすると①の要件っていらないんじゃないかなー。なんで①と②が要件になってるんだろね。


ちょっと脱線すると、あてはめを考えるときに、なんでこの要件が2つに分かれているんだろうなーって思うことは法律のそこここにあって、いつも悩ましいと思っていたのだけど、今読んでる木村草太先生の「憲法の創造力」の政教分離の章にこんな記載を見つけたので、心が軽くなったのでした。

(津地鎮祭判決と自衛官合祀判決の説明に続いて)…これらの判決では、目的の審査については、どのような公益があるのかが一応示されている。しかし、効果の審査は、「行為の目的が公共的であるため、一般人には宗教の援助や弾圧だという印象を与えない」という趣旨の論証で済まされている。これでは、効果面の審査は、目的の審査から独立した意味が全くない。
 そうすると、最高裁の立てた目的効果基準とは、結局、「目的が公共的であれば、いくらでも宗教を利用してよい」という基準になってしまっていることが分かる。しかし、日本的多神教の性質を踏まえると、こうした基準には深刻な問題があることを指摘せざるをえない。

おお、メカラウロコ。
日本的多神教からは政教分離を厳しく審査しなければならないっていうのは、明治維新以来日本人の大多数が持つ宗教的無関心性につながっていて、丸山眞男の「日本の思想」を思い出した。もう一度読んでみよう。


で、民訴に戻るとだね、「補助参加の利益」って複数人間の紛争を解決するときのマキシマムな基準だと思うのね。まず、補助参加の利益があることを認定して、これを睨みつつ落としどころを考える、これにいろんな要素を足してく、みたいな。

例えば、独立当事者参加の詐害防止参加(47条1項前段)の要件もそう。「訴訟の結果によって権利が害される」っていうのは、通説によれば「補助参加の利益+詐害意思」って考えるでしょ。訴訟の結果によって、自己が不利益被るんなら参加を認めてもいい気がするけど、それじゃ補助参加との区別がつかないので、詐害意思を付け加えるみたいなね。

複数人の間で紛争が起こるなんて、現実にはザラにあるわけで、そういう意味で「補助参加の利益」って「訴訟物」みたいにエラくなる可能性を秘めてるなぁ、なんて思うわけなのです。民訴法は全体を貫く線というのがはっきりとある科目で、その代表的なものが「訴訟物」なんだけども、「補助参加の利益」もその表現を変えながら民訴のあちこちに登場するような、そんな気がする。


言葉を言い換えるっておもしろいね。
そんな楽しいことを許してくれる懐深い民訴がすき。

憲法の創造力 (NHK出版新書 405)

憲法の創造力 (NHK出版新書 405)

日本の思想 (岩波新書)

日本の思想 (岩波新書)

*1:追脱担保責任の訴訟物って訴状でどうやって書くん?

*2:訴訟物に対する判断が、第三者の法的地位に事実上影響する場合にも補助参加の利益を認めてよいかどうかは実は悩みの種だったりする。主債務の履行請求訴訟に保証人が補助参加できるかどうかも同じ問題。

*3:判決効の主観的拡張と参加的効力っていうのも、かぶるものがあるのかなー。ここはもうちょっと考えてみたい。

実体法と訴訟との境界線−形成権と狭義の権利抗弁

要件事実のテキストにこんな記載を見つけてしまったために、ここ2、3日うんうんとうなっておりました。

「売買契約は双務契約であるので、通常は売買契約の成立が立証されれば同時履行の抗弁権が存在していることが基礎付けられる 。ここで「抗弁権を基礎付ける事実さえ主張・立証されていれば、抗弁の主張として必要十分である」(事実抗弁説)に立ってしまうと、売買契約の存在は原告が主張しているので、被告の意思いかんに関わらず、常に同時履行の抗弁権が登場することになってしまう。これは弁論主義の観点から不当である。」

− 法律実務基礎講座(講義編)民事 p41より

ん?弁論主義から不当??
だって、弁論主義って裁判所と当事者の役割分担の話よね?原告の主張がある以上、被告の主張なしに同時履行の抗弁権の発生を認めても弁論主義の第1テーゼには反しないはずじゃないの?

しばらく考えて、とりあえずたどりついた結論めいたものを書いてみることにする。
考えながら、実体法上の効果発生要件としての意思表示の問題と訴訟上の効果発生要件(と言っていいの?)としての意思表示の問題をごちゃまぜにしていたことに気づく。前者は形成権の話、後者は狭義の権利抗弁の話。後者が今回のテーマ、同時履行の抗弁権。この同時履行の抗弁権と弁論主義って関係あるの?


そもそも弁論主義って何かっていうと、当事者に事実(と証拠)の主張・提出責任を負わせるもの。そのため、裁判所は、当事者が主張しない事実を判決の基礎として採用してはならず、当事者が主張しない事実は訴訟上は存在しないものとして扱われることになる。つまり、弁論主義は事実主張(と証拠提出)の段階のルール。

ところが、同時履行の抗弁権の効果が訴訟上認められるために必要とされる被告の権利行使の意思表示については、その意思表示をした旨の事実の摘示は不要。その認否も不要。だから、そもそも立証の対象となる事実を選別するルールである弁論主義とは全く関係ないわけなんだよね。

そして、この同時履行の抗弁権のような訴訟上の利行使の意思表示を必要とするものが狭義の権利抗弁。狭義というからには狭義じゃない権利抗弁もあり、訴訟外で利行使の意思表示をした旨弁論で主張すればいいもの、例えば、消滅時効の援用の意思表示なども権利抗弁*1と呼ばれることがある。でも、その意思表示は実体法上の効果発生のための意思表示であって、訴訟上の効果発生のための訴訟上の意思表示とは違うもの。これは形成権であってその実質は事実抗弁にすぎないわけで。

ややこしなー。
狭義の権利抗弁は訴訟上の意思表示の問題なのに対して、狭義じゃない権利抗弁は実体法上の意思表示の問題で、だから実質は事実抗弁とな。

…んで、最初のテキストに戻ると。
「弁論主義」という言葉を使うのは分かる。結局、一方当事者である被告の意思を尊重したいってところは共通だから。でもやっぱり弁論主義から狭義の権利抗弁となる理由を説明するっていうのは、次元がごちゃごちゃになっていると思うのだけど?

むー。どこかおかしいかなー。


  • 実体法の世界と訴訟の世界は、全く別個独立のもの。
  • そこで、これをつなぐものが必要。そのルールが弁論主義である、と。



この話を以前にtwitterでお話させて頂きました。その時にぬーぶさん(@noob_mmcz)からこのようなコメントを頂きました。

533条の「できる」という文言を根拠に同時履行の抗弁権が実体法上権利抗弁となっている、というのは、実体法上形成権となっている、ということなのかな、と思ったりするのですが、どうなのでしょうか…。

悩ましい。



ちなみに、このブログのために書いたメモがこちら。
f:id:cube0229:20131130231829p:plain
それにしてもばっちい字だなー。こういうのキレイに書けるアプリか何かないだろうか…。

2013/11/29 23:05追記
iPadアプリ「Lekh Diagram」で書いてみた。
四苦八苦感が伺えるところはご愛嬌。

*1:時効の性質につき不確定効果説の停止条件説に立つと、時効援用権は形成権ということでいいんだよね?

これからの民事訴訟法(井上治典著)

これからの民事訴訟法

これからの民事訴訟法


約30年前に書かれた書籍だが、今読んでも全く古さを感じさせない。

民事訴訟手続も当事者間の紛争解決の一過程にすぎないとして、訴訟外での私的自治による紛争解決を「補完」する役割を持つもの、との視点から一貫して書かれている。

従来の民事訴訟法が「判決による紛争解決」を確たる基準とし、そこから静的に民事訴訟法を解釈するのに対して、これを当事者の紛争解決状況に応じてより動的に捉えるべきとする点が特徴的。その視点は、将来給付の訴えの利益における請求適格や紛争管理権の概念において考慮されている要素と同じもの。

重要なのは、訴訟が当事者にとって紛争解決のための明確な行為規範となること。

主に裁判所と当事者の役割分担を中心に考えられていた民事訴訟法を、当事者間での役割分担を中心に据え、裁判所はその補佐役にすぎないと考える新しいスキームである。


これを読んでの一番の収穫。それは、当事者の確定の論点が当事者適格とは別に設定されている理由がようやく飲みこめたこと。

当事者の確定とは、当事者適格が訴訟提起段階という場面において特別に変容されたものなんだろう、という予測はあたっていたみたい。

実際、当事者確定の基準について、これを当事者適格と同様に考える「適格説」があり、通説的見解である実質的表示説(訴状の記載に加えて請求の趣旨も考慮して当事者を確定する説)も、確定される当事者を当事者適格を有する者と連動させるための理屈である点で、適格説と同じ流れである。これらの説からは、そもそも当事者の確定、というものの必要性から疑問が生じるような、そういう論点。

当事者の確定の議論で前提とされている価値判断は、現実に裁判に現れた者と訴状の記載とが異なった場合に、「訴え提起の段階から」当事者が誰かを明確にすべきであるというもの。

判例とされる表示説が訴状の記載を基準に当事者を確定するのも「訴え提起段階において」当事者を確定する必要があることを前提としているから。その理由は判決効の及ぶ対象を当初から明確にするため。背景には伝統的な民事訴訟法論、すなわち民事訴訟を訴え提起段階から動かない静的な手続きと捉えることで、基準としての明確性を重視すべきとする考えがある。

しかし、民事訴訟を紛争解決の一過程にすぎないと捉える本書の立場からは、訴え提起段階、というのはそれほど特別視すべき段階か?ということになる。
民事訴訟は当事者の紛争解決状況に応じてどんどん形を変えていくものであり、「当事者」が誰であるかも訴訟の進行に応じて変化しうる動的な概念と考える方が、実体にあってるのでは?とする。

当事者間での役割分担を重視すると、当事者の確定の論点は、結局、訴え提起段階において原告に適格者たる被告を選別すべき責任をどこまで追わせてよいか、の問題に解消される。

本来、訴え当初から相手を特定し訴訟に引っ張り出す責任があるのは原告。もっとも、これが被告側の事情によって不可能となった場合には、原告に被告特定の責任があるとはいえず、ある程度の適当な記載で許されるということ。


法人と法人の代表者、法人格否認の法理における旧当事者と新当事者、法人代表者の交代、などの場合にも同じような問題が起こるね。

本書では、被告側の事情により原告にとって被告とすべき者が明らかでないときは、原告に被告となりうる者を訴訟にひっぱりだす手段が認められるべきとする。これが、主観的予備的併合を認めるべき、とする解釈につながっていく。

主観的予備的併合とは、被告を誰にしたらいいのやら分からない、そういう場面であることを再認識。

学生「一般の教科書をみると、当事者という章では、まず確定が説明され、それから順に当事者能力や適格がふれられるということになりますが、先ほどからのお話をうかがっていると、先生のお考えでは、教科書の中から当事者の確定を抹消してもいいような印象をうけます。その点はどう考えたらいいんでしょうか。」


佐上「すでに確定理論はたいした重要性がないという批判もあります。ただわたくしのように考えると、従来当事者の確定の問題としては位置づけられていなかったところまで取り込むことになります。ここではむしろ、紛争主体特定責任という項目を教科書の中に設けるほうがいいのかもしれません。」

-p45より引用




井上治典先生の名前、印象に残っています。
http://bit.ly/19RrEUX